魔法少女リリカルなのは 短編







 アリシア.2


 久方ぶりの帰宅に、帰路を急ぐ足は自然と歩幅を広くする。ハラオウン家にとってアースラは第二の自宅と言えるが、職場で緊張感を完全に解ける人間の数は決して 多くはないはずだ。クロノ・ハラオウンの実直さと生真面目さを考慮すれば、二十歳を過ぎても中身は良い意味で十代を維持しているエイミィ・リミエッタのように 艦船の自室で寛ぐなんて不可能だろう。
 彼の帰宅路は、アースラの巡航哨戒中領域によって変わるが、移動には艦橋に備わっている転移システムを使う。この帰路の所為か、配属当初はアースラが厳格な 職場に思えない事がそれなりにあった。今とは比較にならないワーカーホリックっぷりだったので、余計にその印象が濃い。さらに言えば、執務官として参考書の知識 をどれだけ摂取しても得られない経験を渇望していたその頃は、クラナガン郊外の自宅に戻った記憶すら曖昧模糊だった。
 フェイトがそうならずに良かったと、今は思う。パートタイマーな執務官なんて広大な管理局を見渡しても果たしているかどうかという彼女は、義務教育修業までは ここと海鳴を渡り鳥だ。なのはもはやても、彼女同様に特異な例外を組織に与えたものである。
 艦橋に詰めているエイミィ達にいとまを告げれば、フェイトちゃんとのんびりね〜なんて軽口が飛んで来る。彼女と休日を合わせて取るのは、提督に昇進後、艦長に 就任以降初だ。余計なところにまで気遣いのできている有能な部下達に伝達事項を復唱させ、絡まれない内に転移ポッドに乗り込む。
 今のアースラの位置的に、本局を経由する必要は無かった。時間もそれほど必要とせず、転移は無事に終了する。
 次元の隔てを飛び越える光が、止む。途端、匂いがする。懐かしさと暖かさ。住まう人間の生活が生み出す独特に香り。それは、帰る場所に帰って来たと思わせる。
 匂いは二つあった。前者が感覚的要素が強い生活の匂いならば、後者はより鼻腔に訴えかけて来る強いもの──夕食である。
 転移室の頑健な扉を開けて板張りの廊下を抜けてリビングに出ると。

「ただいま」
「お帰りなさい」

 蜂蜜色の長い髪を揺らして。尻尾を振って駆け寄って来る仔犬のような風貌でフェイトが駆け寄って来る。
 久しぶりの帰宅の挨拶。黒いエプロン姿もご無沙汰だった。休日の明日も、この貴重な光景を繰り返す事ができる。日頃の忙殺ぶりを思い起こせば、なんて贅沢 だろうか。時間にすれば二四時間と少々。子供が遠足に高揚感を擁くのと同じように、心を弾ませるには物足りないと感じる者もいるだろう。
 このささやかな自由時間を精一杯謳歌したい。
 そうしたい。そうありたい。これらは願いだ。今日は自分もフェイトも艦長就任日よりずっと心待ちにしていた日なのだから、願わずとも気持ちが勝手に騒いで、 きっと瞬く間に時間は経つはずだ。
 そんな予感は、今はやはり願望でしかない。

「クロノ」
「ん?」
「疲れてる?」

 昔からずっと変わらない、様子を窺うような上目遣いの瞳。
 疲労感はあるが、発露されるような重いものではない。
 フェイトは他人の感情や気持ちの変化には敏感な少女だ。彼女を相手に嘘の苦手なクロノが誤魔化しを押し通せた事は今まで一度たりともありはしない。
 偽りは苦手だった。これでも随分と改善された方だが、器用ではないのは相変わらずだ。でも、今はそんな情けない言い訳ができる場面ではない。

「ちょっとな。帰りに無限書庫に顔を出したら、ユーノの学会発表の資料整理を手伝わされて」
「いつも難しい依頼ばかりしてるからだよ。自業自得。でも、それで大丈夫かなぁユーノ」
「何がだ?」
「なのは。最近ユーノからのメールの返信が遅いって言っててね」

 虚偽と虚勢を。せめて上辺だけでも。そう思ってクロノは苦心する。渋面を浮かべて努力をする。
 しかし。慎ましく淑やかなフェイトが見せる歳相応な感情を、適当な相槌でしか受け止めてやれない。

「クロノ。やっぱり疲れてる?」

 悟られる。心が見透かされる。

「ユーノの奴が心配なだけだよ。大丈夫」
「それならいいけど」

 尖らせた唇に人差し指を添え、芝居気のある仕草でひとまずの納得をして見せるフェイト。
 胸が痛んだ。どうしようもないとは言え、彼女に嘘を吐いたという行為に罪悪感と背徳感で心腑が軋む。

「お夕飯なんだけどね、ロールキャベツなんだ。他にも何か作ろうと思うんだけど、何か食べたいものあるかな?」
「なんでもいいよ」
「もう、それじゃ作り応えが無いって」
「フェイトが作るものなら何でもいい」

 嘘ではない事実。それを誤魔化す為に言わなければならない。
 辛い。ただただ、辛い。腰を僅かに屈め、『誤魔化されちゃった』とぺロリと舌を出して赤面の眩い微笑みを浮かべる少女を、クロノは直視できなかった。

「クロノが私の補佐官になったばっかりの頃、同じような会話したよね」
「そうだったか?」
「そうだよ。……じゃ、何品か適当に作るね」
「頼む。僕は着替えて来るから」

 使う機会が徐々に減り始めている自室に戻る。平静を装い、撫でるように廊下を歩み、扉を開けて戸口を潜る。
 ドアのノブが窓から射し込む赤錆色の光を反射する。掴んだ時に掌の脂汗が着いて、肉食獣の牙のように輝く。
 フェイトとの三分にも満たないやりとりは、途方も無い拷問だった。緊張から解放されて弛緩した身体を、クロノはベッドに座らせる。
 ベッドメイクは完璧だった。横になれば、その辺りのビジネスホテルよりも遥かに快適な眠りにつけそうだった。寝間着や私服も丁寧に折畳まれて用意されている。 執務官と学生の兼任でフェイトも疲れているというのに。たまにしか帰宅しない人間の衣服なんて無視して休んでいればいいのに。
 フェイトにとっては、そうした諸々を用意して、そこで発生する疲れすらも、愉悦なのだろう。
 仕事着にしているアンダーを脱ぎ、私服に袖を通す。今日干されたものなのか、太陽の匂いがした。

「………」

 真赤な部屋で、クロノは掌を見詰める。
 二○歳の青年にしては無骨な掌だった。一部の皮膚が何度も潰された肉刺の所為で硬くなっている。眼を凝らせば裂傷の細かな痕すらある。苛烈な訓練に十年以上 耐えて来た結果だった。
 この手を、フェイトは綺麗で暖かい手だと言ってくれた。ベッドの中で指を愛しそうに絡めて、荒い吐息をつきながら、ほのかに紅潮した顔で褒めてくれた。
 彼女がそう言わなければ、クロノはこの手を面白味の無い手という結論を与えて、それ以降一切の興味を擁かなかっただろう。
 フェイトがいてくれたから。自分は沢山の世界を知る事ができた。沢山のモノを得た。世界中を敵になっても恐ろしくない大切な人に、彼女はなってくれた。

「……それなのに、僕は何も返してあげていない」

 シャマルの告白――フェイトの生殖機能が死んでいる事を聞かされて五日余り。これを知っているのは、シャマルも含めたクロノとリンディの三名だけだ。
 フェイトに伝えられるはずがない。アルフもそうだ。主の幸せを自身の幸せにできる使い魔に、主を奈落へ叩き落すような事実を教えられるはずがない。
 フェイトの身体の精密検査は、六年前のPT事件の裁判時に徹底して行われた。何の問題も無い普通の人間という当然の結果が出た。それを今更女性としては致命的 な欠陥が見つかったと、どうやって伝えろというのか。
 六年前の検査データの信憑性について議論をしても手遅れ以外の何者でもなかったが、シャマルが数名の信用できる医療局スタッフと総出で洗い直した。それでも 見落としやミスは発見されなかった。六年前の検査には何の問題も無かったのだ。
 初潮は一七歳になっても来ないというケースがあるという。男性であるクロノにはその辺りの詳細な知識は殆ど無い。言葉の上では知っているし、それが来てはじ めて女性は生理を体験するというのは知っていても、初潮がどういう現象なのか根本的には理解していない。
 ただ。シャマルの説明に聞き入る母親の、蒼白な顔と無感動な表情でどれだけ重い事なのか実感はできた。
 フェイトは初潮が遅いのではない。来ないのだ。女性が子を創る為に孕む痛みを、あの少女は生涯感じられないのだ。

「どうしてなんだ」

 この五日間をクロノはそう呟き、プレシア・テスタロッサに憤りを通り越した憎悪を擁いて過ごした。
 どうしてフェイトに健全な人間の身体を──女性としての普通の身体を与えなかった。
 喪われた生命の蘇生。理想郷アルハザードの知恵の実を掴み、彼女はその禁忌の領域へ足を踏み入れた。そこまでしておいて、満足な女性の身体一つ創れないのか。
 身体の欠陥を、フェイトは遠からず知るだろう。初潮が来ておらず、クロノに嘘を言っている事をかなり気にしているとシャマルは言っていた。フェイトからは口止め されていた話題だったらしく、滔々と語るシャマルの声音も冷え込んでいた。
 フェイトがどうしてそんな嘘――行為の度に安全日だから大丈夫だと言っていた――を吐いていたのか。
 子供に見られるのが嫌だったからだという。
 見る訳が無い。誰が見ても、一五歳になったフェイトは子供ではない。クロノの男性としての理性を破壊して釣りが来る、熟れた女性の身体だ。
 そんな身体が、子供ができない機能不全を起こしていると知れば、フェイトはどんな顔をするだろう。プレシアへの呪詛を思う五日間は、その予想に思考の多くを 費やした。フェイトと一緒にいる限り、自分は『父親』になれないという現実も、クロノには取るに足らないものだった。未練は欠片も浮かばない。
 側にあの子がいない世界なんて。それこそ未練も何も無い。
 それがより深遠な絶望を呼ぶ。
 そんな想いを擁かせてくれる少女に何もしてやれない。



 ☆



 情報が決定的に不足している。手元にあるのは、六年前の精密検査のデータと一ヶ月前に行われた定期健康診断の結果だけだ。
 判明しているのは、遺伝子上の欠陥であるという事だけ。これ以上は詳しい検査をしなければ分からない。
 この五日間、八方手を尽くして調査をしたが、判明したのはやる前から分かっていたような事だけだった。
 五里霧中である。総務総括官リンディ・ハラオウンは重い身体を引き摺ってオフィスを後にし、近くの自動販売機コーナーへ足を運ぶ。
 時刻は深夜を回ったところだった。夜勤で詰めている局員以外は休める者は休んでいる時間帯。誰もいないだろうとぼんやり考えていたら、ベンチに座る白衣の女性 が先客だった。背を丸めて、両手で握った長細い缶珈琲のプルトップ辺りを見詰めている。

「シャマルさん」

 声をかけると、彼女はすっと背を正してリンディを認めた。
 顔色はお世辞にも良いとは言えない。そう告げようとすれば、きっと自分はもっと酷い顔をしていると気付いて、リンディは無言を貫く。
 苦味が強烈な銘柄を買って、唯一の協力者の隣に腰を下ろす。溜息をついて背もたれに体重を預ければ、酷い倦怠感が身体を蝕み、睡魔がぼんやりする頭を包む。 殆ど不眠不休だったのだ。無理も無い。

「クラナガンの産婦人科に強い病院に問い合わせたんですが、やはり詳細なデータが無いと難しいとの事です」

 正面を向いたまま、シャマルが言った。

「そうですか」
「……テスタロッサちゃんに伝えるしかないと思います」

 何も伝えず、フェイトを数日間医療局で拘束して、何十もの検査を受けさせるのは不可能だ。ただでさえ激務な執務官と義務教育学生を兼任している関係上、有給の 貯蓄が進む一方で、彼女自身それを愉しんでいる節もある。そうした時間的な問題もあるが、ただの検査入院だと言い包められるはずがない。
 事実を伝え、精密検査を受けさせる。有給を申請して総務総括官の業務を休み、医療局に詰め始めた初日から判明していた事だ。

「定期健康診断で採取した血液だけでは、もうどうにもなりません。原因は特定できましたが、治療法が分かりません」

 フェイトに知られずに調査を進めて、その上治療法を確立させるなんて夢物語だ。無い物強請りも甚だしい。

「……治療は、可能なんですか?」
「……正直、分かりません。医療魔法の領分を超えた問題です。リンディ提督ならお分かりになられるかと思います」

 治癒魔法は細胞活動を活性化させて患部の自然治癒能力を向上させ、怪我を治療する。基本的には外科的なものだ。不足した血液等の補填は高度な治癒魔法ならば 可能でも、内臓関係に対しては高い効果が望めない。何から何まで魔法で処理できるのなら、本局の一角を占めている医療局は無用の長物だろう。
 どれだけ技術が発達して、魔法関連の分野が進化し続けていると言っても、不具合を起こした人間の身体を治すには相応の機材と知識と人員が必要なのだ。そこに 来て遺伝子治療は、医療局でも専門外の領域である。

「それに」

 シャマルが言葉を区切る。

「六年前の検査では、テスタロッサちゃんの遺伝子に異常は発見されていません。今回のものは明らかに後天的遺伝子疾患です」
「なら、この先も」
「可能性は低いですが、あると見て検査するべきです」

 通路の壁を見据える瞳は動じず。患者とその家族を絶望の淵に追い遣る事実を、シャマルは無感動のまま淡々と告げる。
 彼女は医師だ。この分野に私情を持ち込めば判断も思考も鈍り、自分自身や患者やその周囲に偽の希望を擁かせてより絶望させる。その連鎖を、この守護騎士参謀 は知っている。淡白になる事で、そうはならないように尽力している。
 だが、どうすればフェイトに大規模な検査を受けさせられる。彼女に強く問い詰められた時。リンディは黙秘を貫ける自信が無かった。平然と嘘を吐くなんてできそう にない。
 子供を創れない。この現実を、リンディは母親に憧れる義娘に伝えねばならない。これはもう確定的だった。

「……フェイトは……私の娘は……何時まで苦しむのですか?」

 無力感。悲愴感。そして一握の怒り。向ける先はフェイトを完全な女性として創造しなかったプレシア・テスタロッサ女史しかない。それは筋違いだと理解している のに、憤る感情が縋る先はそこしかなかった。

「PT事件」

 遅かれ早かれ、フェイトは自分の身体の異常に気付くだろう。

「デバイス暴走事件」

 その時、彼女はどうするだろう。

「どうして……あの子ばかりが」

 分からなかった。想像もできなかった。
 でも、きっと悲しい事が起こる。
 それだけは分かった。



 ☆



 夕食を終えて二人で後片付けを済ませて、一緒に入ろうと駄々を捏ねるフェイトに我慢してもらって一人で入浴を頂いた。
 後はもう寝るだけだった。日頃はシャワーで終わっていた為、入浴剤も入れた風呂は格別なものだった。彼女と一緒に入れていればどれだけ幸せだっただろう。
 不貞腐れてしまったフェイトは、今頃一人のバスタイムを粛々と済ませている。眼を眇めて見せる人間なんて片手で数えて足りる素直に不機嫌を表現した表情は、 ただそれだけで可愛かった。
 液晶テレビが映しているゴールデンタイムのワイドショーを眺める。一週間で起こった事件のダイジェスト、経済の流れ、世間の流行、スポーツ特集、風流な映像。 クロノは道の片隅に転がっている小石を見るように、何の感慨も擁かず、死んだ魚の眼差しで綺麗な画面を見守る。手には半分ほどに減った缶チューハイ。口元が寂しく なったので冷蔵庫を開けたら、何本か入っていたものだ。リンディの物だろうが、一缶だけ拝借した。
 アルコールは得意ではないが、飲めない訳でもない。好む好まないは別として折衝の機会も多くなる提督という階級では、飲めませんでは済まない。
 幸いにもこのチューハイはその辺りのジュースと大差無いものだった。口当たりも良い。ついつい進んでしまう。

「お酒なんて珍しいね」

 背後からの、声。振り返るより先に彼女──フェイトが横に腰掛ける。

「パーティで酔わない為の訓練だ」

 甘い匂いは、肩と肩が触れる距離の少女から漂って来る。同じ石鹸や洗髪剤を使っているのに、どうしてこんなに違うのだろう。それに、今日はいつもより少し違う。 まだ湿り気を残して綺麗な光沢を放っている金の髪や白いうなじから、微かな香水の匂いを感じる。

「香水か、それ」
「あ……分かっちゃう?」
「アースラには女性クルーが多い。経験上だ」
「何かちょっとやらしいなぁ、その発言」

 フェイトの掌が、クロノの手の甲にそっと伸びる。
 オーバーSクラスの航空魔導師で、四年以上のキャリアを持つに至った執務官のそれとは思えない華奢で繊細な手。
 指が触れ合う。クロノの体温を貪ったフェイトは、袖口が触れるぐらいの距離をさらに詰める。
 同じ人間なのかと疑問に思わざるを得ない柔からさと暖かさだった。フェイトが日頃からは想像もできない薄着だった所為で、余計にそう感じられる。
 薄手のキャミソールと大腿が露になっているホットパンツは、寝間着でも何でもない。真夏のようなその身形は、春先の今でも些か身体に害だろう。クロノ的には 眼の遣り場にも困る。彼女が身じろぎ一つすれば、豊かになった二つの乳房が歪み、谷間を覗かせる。下着も付けていないようで、先端まで見えてしまう。
 何も無ければ、今頃は仰天して情けない悲鳴を上げ、ソファから転がり落ちているに違いない。醒めているなと、クロノは自己評価を下して眼を細める。
 相思相愛の少女が下着と何ら変わらない格好をして抱き着いて来ているというのに、何の感慨も浮かばない。胸は高鳴らないし、高揚も興奮も何も感じない。

「フェイト。アルフにだらしない格好をするなと言っていた君がそれでどうする?」
「それは、その」
「風邪を引くぞ。早く何か着て来い」

 嗜めるように言うと、フェイトは表情を変える。落胆とも不快とも悲しみともつかない複雑な感情が闊歩する。

「子供に言うみたいに言わないでよ、もう」
「だったら大人な格好をしてくれ」
「……クロノ、興奮しない?」

 淑やかなフェイトが過激な衣服で、それも日頃はあまり使わない香水まで使って身を寄せて来ている。その意図ぐらい、クロノにも分かる。
 今日はアルフもリンディもいない。アルフは気を利かせて無限書庫でユーノの手伝いに奔走中だ。二ヶ月ぶりに二人だけで過ごす今日は、誰の邪魔も入らない。
 数日前に言っていた我慢の限界が、すぐそこに来ているのか。それとももう決壊してしまったのか。どちらにしても、フェイトは誘って来ている。子供達から好かれ 愛されている慈愛の表情を押し隠し、男性を誘う艶やかな仕草と声音を以って。

「してる」

 再び嘘を付く。

「嘘」
「本当だ」
「やっぱり疲れてる?」
「風呂に入ったら取れた」
「じゃ──しようよ」

 フェイトが言った。

「母さんも、アルフも……今日はいない」
「ああ」
「私とクロノ、二人だけ」
「そうだな」

 フェイトが服の袖を摘む。クロノの腕を形の良い二つの胸に挟み込む。

「クロノ……やらしい子、嫌い?」
「………」
「駄目かな? 疲れるなら無理には言わないけど……私はしたい。沢山したいよ……」

 嗅覚を麻痺させるような甘い香りの豊潤な身体を押し付けられて。聴覚が狂ってしまいそうな蕩ける声を耳元で告げられて。潤んだ赤の瞳を上目遣いにされて。
 これで駄目だと跳ね飛ばせる奴は、世界中探したって存在しないはずだ。どんなに濃い疲労に身体が苛まれていても、どれだけの高熱にうなされていても、理性を 見失って、少女の身体を貪欲に貪る。彼女が抵抗する素振りを見せても無視して乱暴な真似をしてしまうかもしれない。
 そうできない自分に殺意を覚える。不甲斐ない。どこまでも忌々しい。
 ──駄目なものか。したいのは君だけじゃないんだ。
 着替えを終えてからずっと考えていた。食事の時、風呂に入っている時、酒を飲んでいたあの瞬間も、クロノはずっと考えていた。
 フェイトにしてやれる事は何だ。本当に何も無いのか。一生側にいる以外に何も無いのか。

「フェイト」

 一度は何も無いと絶望した。無力な自分に愕然とした。

「え?」

 でも、あった。

「色々と辛いぞ」
「……辛い、って?」
「前にも言ったけど、僕だって我慢してたんだ。これでも二十歳になるまで、そういう行為とはずっと縁が無かった」

 酷く歪で。身勝手で醜く。人間としてどれだけ浅ましい事であっても。クロノは見つけた。
 この一五歳の少女の穏やかな顔を、恍惚とした欲情の顔にする。月経なんて忘却させてしまうぐらいに。
 何の解決にもならないのは分かっている。ただの現実逃避だ。苦手な酒を飲んでいる自分のそれを同等の愚かな行為だ。フェイトの為ではなく、自分の無力感を忘れ る為の行為であるのも分かっていた。
 でも、それ以外に何も思いつかないのだ。

「君が嫌だと言っても、泣いても、多分止まらないぞ」
「……いいよ」

 掠れた声で、フェイトが言った。甘える時、何故か敬語を使ってしまう昔からの癖もそのままに。

「クロノになら……何されも、私は嬉しいから……沢山……泣かせて下さい」
「……今日は大丈夫なのか?」

 分かっているのに訊ねてしまう自分の卑怯さを呪う。儀式的なものである以外に何の意味も無い問答。
 逡巡の後、フェイトは不安を廃した赤い双眸をクロノに向ける。そこにあるのは爛々とした期待と邪欲に塗れた切望。

「平気です……だから……いっぱい、して……下さい」

 夜はまだ浅く、日付も変わっていない。
 誰も見ていないテレビは、ずっとそのままだった。



 ☆



 意識が戻って来る。眼を閉じているはずなのに、鬱陶しいくらいの光を感じた。
 何度か寝返りを打って、眩しさから遠ざかろうとする。でも、光は瞼の上だけではなく、顔全体に射し込んでいるようだった。
 今は起きたくなかった。この心地良い倦怠感に包まれて、下腹部の底にある熱さを感じていたかった。何度も何度も叩き付けるように吐き出された彼の残滓を大切に していたかった。
 光は執拗だった。微かに小鳥の鳴く声も聞こえる。それが逃亡しようとする意識を揺さぶって来る。
 仕方なく、フェイトは眼を開けた。

「………」

 カーテンの隙間から溢れている朝陽が枕を暖めていた。これではどこに逃げても追って来る訳だ。
 余韻が霧散して行く。火傷してしまうぐらいに熱かった下腹部の熱も全く無い。とても残念で、郷愁のような寂しさがやって来る。
 それを紛らわすように、フェイトは眼を擦りながら赤ん坊のようにベッドの上を手探りする。自分を抱き締めてくれていた彼を探す。

「くろの……?」

 その姿は無かった。気だるい意識が一瞬で覚醒して、曇っていた視界が良好になる。
 ベッドにはフェイトしかいなかった。クロノの姿はどこにも無い。
 一足先に眼を覚まして、シャワーでも浴びているのだろうか。
 シワだらけのベッドを降りて、フェイトは無造作に床に散らばっていたショーツを拾い上げる。新しい下着を自分の部屋に取りに行く気力が湧かない。シャワーを 浴びる前に頑張ってみようと思いながら足を通す。上に羽織る物は、自分のキャミソールは汗やらそれ以外の体液で悲惨な状態だったので、クロノのシャツを借りた。
 鏡を覗く。大切な金髪は寝癖やら白い何かやらで酷い有様だった。さらに、眼が赤い縁取りがされてしまっている。
 クロノの忠告の通りだった。ずっと泣かされて。彼の言う事には何でも従って。どんな格好も命令も、されられる事に狂ったような喜びを感じて。
 思い出すと顔から火が出てしまうぐらい恥ずかしい。羞恥心が無いのかと己を嗜める。

「とにかく、シャワー浴びないと」

 きっとクロノも今頃は熱いお湯で眼を覚ましているはずだ。そのまま一緒に浴びよう。昨日は何故か拒絶されてしまったのだから、今日は強行突入だ。
 それで、学校に行く前に一回だけ――。

「……何考えてるんだろ、私」

 昨日あれだけしたと言うのに。そもそもクロノは疲れている。それを自分の我侭に付き合って、沢山の事をしてくれたのだ。これ以上望むのは身勝手過ぎる諸行で ある。でも、もし彼が求めて来たら。
 妄想を膨らませる自分の頭に軽く拳骨を入れたフェイトは、急いで部屋を出た。歩く度に腰や股の間に鈍い痛みが走ったが、我慢できないものでもない。このまま 学校に行けばアリサ辺りに詮索されるかもしれないが。
 親友の詰問から逃れる術を考えつつ自分の部屋に寄って、新しい下着を準備する。クロノに見られても平気なように、新しい物を選んだ。
 廊下に出て、バスルームに向かおうとした時だった。

「……母さん?」

 微かな話し声がリビングから洩れて来る。耳をそばだてると、クロノとリンディのようだった。
 気が動転して何も無いのに転びそうになった。母が早朝に帰宅する事は何度もあったが、今日は想定外である。いや。クロノと行為に及ぶ事で頭がいっぱいで、そこ まで気が回らなかったというのが本音である。
 その場で慌てふためいたフェイトは、取り敢えずシャツのボタンを全部締めようとする。ショーツとシャツのみという乱れた格好はどうにもならない。その上解けた 髪に着いている色々とアレな物は説明のしようがない。
 バスルームに逃げ込もう。そう決めた矢先。

「あの事、フェイトに話すの?」

 不可思議な言葉に、踵を返した足が停止する。
 視線が通路の奥にあるリビングへの扉に移る。距離は僅かに数メートル。早朝の空気は少々肌寒く、板張りの廊下を静かなものに変えている。明かりも乏しく、 薄暗い。その為、母と彼の話は普通に聞こえた。

「話すべきかどうか、どちらがフェイトにとって良いのか、僕には判断がつきません」
「……それは私もよ。でも、いつかはフェイトも自分で気付くわ」

 低く、冷たく、張り詰めた声。
 知らず知らずの内に、フェイトはリビングに歩み寄っていた。床を軋ませないように慎重な足取りで、気配も悟られないように殺しながら。
 扉の前に立つ。でも、ドアノブを掴む事ができない。手は金属の冷たいノブを掴んでは離れて、逡巡を露にしていた。
 そして、フェイトは確かに耳にした。

「自分が子供を創れない身体だって、あの子は必ず知ってしまうわ」

 ――え?






 to be continued



















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