魔法少女リリカルなのは 短編







 アリシア.3


 白亜の建物がある。清潔感のある佇まいと独特な構造。敷地はとても広く、地方都市が持て余し気味の土地を活用した駐車場には朝も九時だというのに多くの自動 車が止められている。建築物を取り囲むのは、芝生として整備された大地と植栽された樹木。植物の緑と潮の香りを同時に愉しめるのは、海と山に挟まれたこの街特 有の贅沢だ。
 その建物──海鳴大学病院の前に少女が立っていた。枯草色と黒土色の制服は、市内でも高い知名度を誇る私立の聖祥大附属中学校の生徒が袖を通すものだ。手に 提げた学生鞄も、同校指定のものである。
 淑やかな印象の少女は、豪奢な蜂蜜色の髪を揺らして小さな一歩を踏み出す。スカートから伸びた足はしなやかさで細く、陸上競技の優秀な選手のそれに近いものだ。
 けれども。その足は二歩目を刻まない。自動車進入防止用のポールの側で動かなくなる。顔は自分の足元と眼と鼻の先に屹立する大学病院を何度も往復するが、足 は射し込む朝日に翳を縫い付けられたようにピクリともしない。
 診療の為に訪れる者や院内の職員が、様々な視線をその少女に送る。日本人離れした端整な容貌の所為でもある。学生ならばすでに学校で出席を取っている時間に、 こんなところで何をしているのかという疑問や怪訝の眼差しもあれば、歩行路の真ん中で樫の木のように棒立ちする見慣れぬ少女を邪魔だとして不快な感情を放って 来る者もいる。
 それでも。少女は立ち尽くす。知らない土地で親とはぐれた子供の顔で。鞄を持っていない手を何度も握り直して。
 少女──フェイトは、自ら望んでここに来ている。
 学校は無断欠勤をした。友人達にはメールだけ送った。
 鞄の中は空に近かった。学校で必要とされるものは筆記用具しか入れていない。後は殆ど利用した事の無い健康保険証と通院証がひっそりとパスケースの中に詰め 込まれているだけだ。
 これを持っていけば受診してもらえる。
 向かう先は、どこだ。内科か。それとも神経科か。
 違う。産婦人科だ。
 本当か。それでいいのか。
 分からない。
 分からないまま、決心のつかないまま、市内でも最も設備も人員も充実している病院を訪ねようとしている。
 心細かった。世界で独りだけになってしまった気分になった。瑞々しい太腿を隠す黒土色のプリーツスカートを握る。いつもよりずっと煩い心臓をこうやれればど れだけ楽になるだろうか。
 怖かった。死ぬよりも濃い恐怖だろうとフェイトは思う。誰かに縋りたくて、誰かに助けを求めたくて、でも一番そうしたい人はここにはいない。
 クロノ・ハラオウンは自宅で眠っている。スニーカーの爪先で共通通路の床を蹴るフェイトに、彼は眠気と戦いながら手を振ってくれた。行って来ますのキスを強 請れば、きっとしてくれただろう。
 下腹部に手を遣る。生理痛に苦悶していた親友がそうしたように。
 女性が月に一度味わう苦痛は、やはり来ていない。でも来るはずだった。この先きっと待ち望んだその時が優しい足音を立ててやって来ているはずだった。
 そんなささやかな願いが、今は信じられない。
 人の気配が増えて来る。数回の着信と四件のメール着信をディスプレイに表示している携帯電話は、時刻を九時半と告げている。外来が増え始めるだろう。このま まここにいても、仕方が無い。
 一歩だ。知ろうとする一歩さえ踏み出せれば。
 誰かが横に立つ。

「あの」

 首を巡らせて、その声の主を認める。
 見覚えのある女性が珍しいものに向ける眼を瞬かせている。誰だっただろうかとおぼろげな記憶を辿ろうとする前に、白衣に付けられた名刺に眼がゆく。

「はやてちゃんのお友達……だったかしら?」
「石田……先生?」

 六年という年月経過を殆ど感じさせない身形で、親友のかつての主治医がやっぱりそうだと微笑んだ。



 ☆



 名前は、確かフェイト。フェイト・テスタロッサだっただろうか。職業柄名前を覚えるのは得意分野だったが、六年前の不思議な患者──八神はやての友達として 紹介されていたので、記憶に濃く残っていた。日本人ではなかったのも原因だろう。正確な人種までは知らないが、名前から察するにイギリス辺りだろうかと思案する。
 どこか具合が悪いのかと問うても、美しく成長した少女はお茶を濁すような返事ばかり寄越す。後ろめたい事柄を抱えた子供と変わらない仕草。
 何かあるなとおぼろげに感じた。ここに医者としての経験は必要無く。ただ、人間として。
 身じろぎをして視線を合わせようとしないフェイト・テスタロッサは、明瞭な主張こそしなかったが、不慣れな愛想笑いで強張らせた顔で、この場から一刻も早く 離れたい、帰りたいと徹底した意思表明をしていた。
 朝も早くから制服のままで街中を闊歩していれば、瞬く間に補導される。凛とした佇まいで、今も昔も大人しそうな雰囲気は変わらず。学校を無断欠勤するような 子にはとても思えない。ここに──病院に来ているのも、気になった。
 今日は当直明けだ。後は自宅に帰ってしばらくぶりの夫と我が子と体面して休むだけの予定。

「少しお話しましょうか」

 ただのズル休みではないと直感が告げている。身体を休めるのは、一旦後回しだ。
 フェイト・テスタロッサは躊躇うように唇を横一文字に閉ざして。辛抱強く待つ石田に従った。
 場所は食堂にしようかと思ったが、自分と同様の労働を済ませた医師や看護師達が軽食を摂っている時刻なので、ゆっくりと話ができなさそうだった。ならばと、 神経内科の自分の診療室へ彼女を招いた。

「そこに座って。何か飲む?」

 返事には期待せず。電気ポッドにお湯が残っているのを確認して、お茶の用意をする。珈琲も悪くはないが、飲み過ぎは身体に毒だ。夜勤の友には最適なのだけれど。
 程無く机上に湯気を燻らせる湯飲みが二つ並んだ。お茶請けは残念ながら切らしていたので何も無し。長話になるなら、あれば良いのだが。必要はないだろうと、 根拠無く感じた。
 石田は飲み慣れた市販の緑茶を啜り。けれど、一五歳の少女は手を膝の上に鎮座させたまま、動こうとしない。
 館内放送が廊下で木霊する。誰かが駆けて行く慌しい足音。防音機能に優れた扉が、すべてを遠くの世界の出来事にしていた。

「あの」

 フェイトが、口火を切る。顔は、膝を向いたまま。そこにある手が、握り拳になり。

「例え……話なんですけど」
「ええ。何かしら?」

 今の彼女に、心を解きほぐすような世間話は無駄だ。伊達に神経内科の医師を長年務めてはいない。患者とのコミュニケーションが、病を治すには必要不可欠な 要素だ。その為に培って来た観察眼と洞察力が、フェイト・テスタロッサの話に口を挟まず耳を澄ませと告げている。
 ただ──。

「好きな人がいて。その人との間に……子供が作れないとすると、どうですか?」

 彼女の歳を考慮するならば。喩え考慮したとしても。これが純然たる質問なのか、それとも好奇心から取っているアンケートなのか。その判断を下すのは難しい ところだっただろう。
 戸惑いは、けれど、表情にも気配にも出さずに心中で処理する。うつむいて動かないこの少女は、あの達観した八神はやての友達の一人だ。だからなのか、抱え た問題はそれに比例して妙に大人びているというか──。

「……そんな事無いか。貴女くらいの歳の子なら、気にしちゃうかもしれないわね」

 今頃の少女達が、と言えば自分の歳に様々な感慨を持ってしまうので口にするのは憚られる。少なくとも自分がこの少女の歳の頃は、子供を作るなんて恋愛の遥 か向こう岸にあるような行為には、思考が及ばなかった。

「貴女は、好きな人はいる?」

 蜂蜜色の綺麗な髪が微かに揺れる。首を縦に振った肯定。

「その不安を、その人に話した事は?」

 長い沈黙の後、再び髪が揺れる。首を横に振った否定。
 この子は一体どれだけのものを抱えているのだろうと、石田は胸の奥に軋みを覚える。八神はやてと同い年、ならば今年で一五歳を迎えているはずだ。幼さ、あど けなさ、無邪気さを謳歌する中学生を終えて、大人の仲間入りを果たす為の最終準備段階たる高等学校に足を踏み入れる歳。今まで通り振る舞いう事で、それなりの 痛みを知ってゆく歳。
 院内の産婦人科に勤める友人が、彼女ぐらいの少女が月に数人は妊娠関係で診療を訪ねて来ると愚痴ていたのを思い出す。不妊を怠り、愛を確かめる為だとかご立 派な大義名分を振り翳してセックスに耽るからだ馬鹿者めと、口の悪い喫煙家の彼女は副流煙を燻らせていた。
 眼前の子に、そんな風潮は一切感じられない。彼女が背負っているのは、逡巡と後悔。そして懺悔。
 何に対してなのか。誰に対してなのか。決まり切っている疑問ではないか。
 不妊症で悩んでいる。そしてそれを愛する異性に伝えていない──それだけではないような気がしてならないが、けれど、今はそれに近しいものなのか。
 
「分からない、わね」

 自分でも聞き取れない掠れた声で独りごちる。
 それだけでないような気がする、と感じた自分。感受性は高いのか低いのか、今まで考えた事もなかったので分からないが、それでも自分はフェイト・テスタロ ッサから不妊症に悩む早熟な中学三年生とはまた違う印象を受けてしまう。
 分からないと、口に出した呟きを心中でも繰り返す。
 それでも理解しなければいけないのは、フェイト・テスタロッサが巨大過ぎる不安を抱えている事と、それによって心が圧壊の危機に遠からず直面する事の二つだ。
 膝に伏せられていた少女の手は、いつの間にか握り拳になっていて。石田は、その拳に指を添える。冷えた外気に晒されていた彼女のそれは冷たく、微かに震えていた。

「不安なのは、貴女一人じゃない。好きな人も、きっとそう」

 フェイト・テスタロッサが顔を上げる。弾かれたように。忘れていた現実を思い出して、驚いたように。見開かれた紅い瞳の輪郭は緩み、綺麗な睫毛まで濡れていた。
 女性の身体が起こす不具合は、独りで背負うには辛い問題だ。愛する異性と家族の理解と協力が必要なのだ。彼女にその二つが揃っているのかは分からないが、何の 根拠も無く大丈夫かもしれないと、石田は杞憂する事すら放棄する。医者として希望的観測を一番の判断材料にするのは危険だったが、これは一人の人間として、一人 の女性としての勘だった。

「ここの産婦人科に、私の知り合いがいるの。話を通しておくから、今度はご家族か、その好きな人を連れて来て」
「………」
「向き合わないと駄目よ。全員で、ね」

 日本人離れした綺麗な顔をくしゃっと歪めて肩を震わせる少女を、石田は軽く抱き締めた。
 無性に夫と子供に会いたくなった。今ではそこにいて当然の家族でも、得る為に沢山の苦労を積み重ねた。だからこその幸せを、フェイト・テスタロッサはこれから 知ってゆくのだろうと嗚咽を漏らすフェイト・テスタロッサの細い背を撫でながら思った。



 ☆



 時計の針が聖祥大付属中学校の下校時刻を示して一時間が過ぎても、クロノはマンションで独りだった。
 キッチンには昼過ぎから準備を始めたカレーが鍋の中で熟成しつつある。特にやる事も無かったので、徹底して手の込んだ味に仕上がった自信作だ。

「違う。何もやる気が起きなかっただけだろう」

 自分への言い訳を、自分で否定する。
 今日一日、夕食作り以外に何をしていたのか記憶はあまりにも不鮮明だ。眼を覚ました後は熱いシャワーで気怠い身体に鞭を打ち、眠気を追い払えばリビングでは 母親が待っていた。リビングのソファには昨日の行為の一部がそのままになっていたので、何とも重苦しい沈黙に見舞われたが、特に何も咎められる事も無く。切り 出されたのは、フェイトの身体の事。
 彼女に真実を告げるべきなのか、否か。
 悩んでいるなと、クロノは思う。悩みと考えるは、似ているようで非なるものだ。悩みとは答えが出ている状態で足踏みをする事であり、考えるとは、答えを求め て知恵を絞る事を指す。恩師からの教えの一つが、今は身に沁みて理解できる。
 フェイトが己の身体の異変に気付くのは、遠からず先の未来。何時かは、知ってしまう。何が原因で知るに至るのかまでは想像の範疇を超えているが、一五歳を跨 いで初潮が来なければ誰にも何も言わずに一人で自分の身体について調べるだろう。不妊症はどこの世界でも共通して女性を襲う病だと、シャマルは言っていた。な らばその検査機関も数多とある。この世界──第九十七管理外世界の文化水準値は魔法技術等が無いだけで、平均レベルだ。ミッドチルダと比較すれば無論見劣るが、 充実はしている。産婦人科に行けば、彼女の身体の異変はたちまちの内に判明する。その時、彼女は独りだ。母親に対して人一倍強い憧憬を抱く彼女ならば避けては 通れないこの問題を、独りで突きつけられる。
 だったら。自分の口から言って、二人で受け止めて、そしてリンディやアルフ、家族全員で打開に向けて取り組むべきではないだろうか。エイミィやアースラの面 々にだって協力を仰げばいいだろう。しばらくの間、執務官を休んで静養しつつ慎重に検査をすれば解決策もすぐに見つかるかもしれない。
 この選択が、最善策。隠し通せるような問題ではないと最初から分かり切っているのだから。だったらこの口で──彼女を世界中の誰よりも愛して大切にしている 自分が告げるべきだ。
 そうできないのは──。

「もうあの子の泣き顔なんて、見たくない」

 あの事件──デバイス暴走事件で、一体どれだけの悲しみをあの少女に植え付けた。望まずして何度その心を壊そうとした。
 今でもあの時を思い出す時がある。五年前の、雨の日を。雨季を迎える度に、思考は弛緩して身体は酷い倦怠感に蝕まれる。心は沈み、底の無い沼に足を入れてし まったような気分になり、陰鬱になる。その度に自分が情けなくなり、憂鬱になる。後は負の連鎖。螺旋軌道を描いて何も手に付かなくなる。
 何て情けないと自嘲はするが、改善されるのはいつも雨季が過ぎ去った後だ。リインフォース・ツヴァイが愛する主を想うあまりに起こしてしまったあの事件の時、 白髪の自分自身にあれだけの啖呵を切っておきながら、この体たらく。
 こんな格好の悪い自分は、勿論隠しはするけれど。親しい者達には見抜かれている。
 エイミィにはそろそろヘタレも卒業しなさいと額を小突かれ。
 リンディからは無理はしないようにと優しく肩を叩かれ。
 アルフからは胸を抉る皮肉や嫌味を言われ。
 けれど、フェイトからは、何も言われず何もされず。困ったように柳眉を顰める彼女は、あの傷痕の無い左の手首を差し出して、こう言うのだ。

「私も痛むんだ、ずきずきって。だから、クロノが暖めて」

 言われるままに両の掌で包んでやれば、フェイトは日向ぼっこをする仔猫がそうするように、喉を鳴らして身を任せて来る。抱き止めてやると、彼女は眼を細めて 耳を胸に添えて来る。その聴覚を研ぎ澄ませて、こちらの心臓の音を確かめようとする。

「私もクロノも、独りだと、この季節は辛いけれど……二人なら、大丈夫だね。苦しさも悲しさも、全部分かち合えるから」

 顔を上げて。薄っすらと赤みの増した頬で。いつもそう言う。
 そう、雨季になれば必ず反芻されてしまう五年前のあの悪夢の記憶も、二人なら耐えられる。明けない夜も、乗り越えられる。苦しさも悲しさも、分かち合えば、 一緒に受け入れて、手を取り合えっていれば、何が来ても怖くはない。
 だったら。ならば。すでに出ている結論を実行に移すのに、恐れる要素なんてありはしないではないか。独りで知れば絶望の淵に立たされてしまうような現実だっ て、二人でなら変わるかもしれない。
 自分は、確かに弱い。彼女だって強くはない。
 でも、二人だったら。震える手も、握り合えば。

「………」

 見下ろした手は、この世でたった一人しか救えない弱い者の掌。だから、世界で一番大切なあの子を──フェイトを、誰からも何からも守ろうと誓った。
 安易な希望に縋る訳でもなく。安直な展開に期待する訳でもなく。
 クロノは当たり前のように、確信した。

「ただいま」

 振り返れば、フェイトがいた。見慣れた枯草色の制服姿で、学生鞄と近くのスーパーのビニール袋を提げていた。
 予期せぬ帰宅でも、これまでの懊悩を億尾どころか睫毛一本微動だにせず表情に出さなかったクロノは、ヴェロッサ・アコースのポーカーフェイスもそれなりに会 得して来たなと不慣れな自画自賛をしつつ、愛する少女を迎える事にする。

「遅かったな、心配したぞ」
「ちょっとなのは達と寄り道してて。ご飯の準備、すぐにするから」
「ああ、それならもう終わってる。半日煮込んだカレーだ」
「……張り切って買い物して来たのに」

 明日作ればという言葉は舌の上を闊歩するだけに終わった。休暇は今日まで。明日からは通常業務が待っている。自分は次元航行部隊提督兼巡航L級八番艦船艦長。 フェイトは、執務官と学生の二束の草鞋。まさに休む暇の無い生活が、また始まる。この問題を──二人でなければきっと立ち向かえない問題を、残したまま。

「フェイト」
「クロノ」

 見計らったかのように、二人の声が重なる。見合わせた顔は、互いにとても良く似ていて。第三者がいれば鏡のようだと比喩したに違いない。
 フェイトは視線を背けない。紅い双眸はいつもと変わらない潤いで、しかし、中学生の身形からは想像の難しい強靭な意志を宿し。それを、発信して来る。頬は強 張り、唇は硬く閉ざされたその容貌は、張り詰めた糸を連想させた。
 フェイトは、何か思いつめている。クロノがそう結論付けた時、彼女は先手を打った。

「明日。一緒に来て欲しいところがあるんだ」






 to be continued



















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