魔法少女リリカルなのは 短編







 アリシア.7


 その日の朝。なのはは遅れてクラスに現れたフェイトにいつものように朝の挨拶をする。

「おはよう、フェイトちゃん」
「うん。おはよう、なのは」
「今日はお寝坊さん?」
「家に持ち帰った仕事が終わらなくて」

 軽い世間話を意識してするのは、思っていたよりもずっと重労働だ。慣れない事はするものではない、というのは魔導師としての歪な成長グラフを陸士訓練校で矯正した時に鋭い全身の筋肉痛と一緒に痛感したこの世の理の一つ。
 この無二の友は勘繰りが鋭いので、果たして不慣れな演技が通ずるか不安はあったけれど。彼女は特に訝しむ様子も見せずに微笑む。
 明るくて綺麗な笑顔だった。出会った頃に見たいと感じて、ひとときのお別れの時にやっと見せてくれた、とびきりの微笑み。
 用意していた二の句が苦も無く蹴散らされ、胃の腑に叩き落された。

「なのは? どうしたの?」
「え。う──うん」

 これから自分が採る行動が、この無垢さに翳を与えるかもしれないと懸念すれば、口は勝手に言葉を濁してしまう。
 それでも口火を切らなければいけない。教室の一角から──アリサの席に集まっているはやて達からの視線の応援もある。この役割はなのはが適任であると、満場一致で可決されたのだ。皆の期待を裏切る訳にはいかない。自分も──口を閉ざして貝を決め込むのは嫌だった。
 フェイトの突然の欠席から、もう一週間以上が過ぎている。その間、彼女の様子はいつもと変わらなかった。
 体調不良で高熱に唸されても登校して来るような学校好きだ。管理局以外の事情で欠席する事はまず有り得ない。だから今回もそうだと思ったが、フェイトはその理由を今も教えてはくれなかった。急な仕事でお休みしちゃったと、残念そうに眉尻を下げる事をしなかった。
 何かがあったのだ。海鳴での日常を大切にしているフェイトが、その象徴のような学校を休まなければならない何かが。
 それを不躾に聞き出すのは、後ろ髪が引かれた。言わないのであれば、口に出来ない事情が絡んでいるに決まっている。魔法の事をアリサやすずかにひた隠しにしてジュエルシード蒐集に奔走していた時のなのはが、そうだったのだから。
 本当の友達なら、不用意な詮索はしてはいけない。助けを求められない限り手を差し伸べてはいけない。それは、分かっている。  視線が足元に逃げる。椅子に座って机上に教材等を用意し始めているフェイトの手元が垣間見える。きっと不思議そうに眼を瞬かせて見上げているだろう彼女の愛らしく大人びた表情を想像して。

「何かあった?」

 でも──友達が苦しんでいるのなら。何とかしたいと思って願って感じるのは当然だ。

「一週間くらい前に学校お休みして。フェイトちゃん、風邪引いても学校には来てたのに。管理局でも、ないし」
「………」
「話したくないんだなって、フェイトちゃんの様子を見てたら思ったけど」

 だったら知らぬ存ぜぬを通せばいい。けれど、それが苦慮無く出来れば苦労はしない。
 フェイトが抱えた何かが何なのか。何の情報も無い今は想像すら出来ない。管理局関係なら、今までも電話で何度も相談し合って来た。隠す必要は無い。なら、繊細なプライベートな事柄なのかもしれない。
 言葉が続かない。間を繋ぐ為の意図不明の発言が朝のホームルームを目前にした教室内の喧騒に飲み込まれてゆく。なのはの視界は、自分の足と、照明を照り返すリノリウムの床と、フェイトの机と、彼女の左手を収めている。
 違和感に気付く。聖祥大付属のこの学校の校則はそれほど厳格ではないが、ピアス等は無論禁止事項だ。目立たないシンプルな装飾品なら許可はされている。
 でも、フェイトが指輪を身に付けていた事は今まで一度たりとも無かった。着飾る事をあまりしない彼女だからこそ、左手の薬指で輝くそれはとても目立つ。

「それ」

 顔を上げてフェイトを直視する。
 微笑みはそのままだった。ただ、恥ずかしさを滲ませて頬を紅くする。教材を机の引き出しに収納した彼女は、おずおずと遠慮がちに左の手の甲をなのはへ見せた。薬指に填められた指輪には、一つの小さな宝石が設えられている。それが何と言う名前の物なのか、それが何を意味するものなのか、恋愛事情には果てしなく疎い高町なのはであっても理解出来る。

「クロノから、昨日貰ったんだ」
「──エンゲージリング、だよね」

 うんと蚊の鳴く声で答えて。フェイトが首肯する。
 だが。まさかこれが原因で学校を欠席したという訳ではないだろう。フェイトとクロノの惚気話については今日に至るまで散々聞かされて来たが、結婚指輪を購入する為に学校を休むなんて不謹慎で不思慮だ。

「それが、お休みした理由?」
「違うよ。これは結果かな?」
「……結果?」

 そこでフェイトはなのはが背負う視線に気付いたようだった。身を乗り出してなのはの背後を見遣りし、そこに見慣れた友達の姿を認めた。慌てて同級生達の翳に隠れようとしたはやて達だったが、見つかってしまってからでは後の祭りである。
 その時、彼女達を助けるようにチャイムが鳴った。ガラリと扉が開いて担任の教諭が姿を見せる。談笑に耽っていたクラスメイト達は蜘蛛の子となって離散し、自分達の席に戻ってゆく。
 なのはも、そうせざるを得ない。不思議な表現をしたフェイトに、その意図を訊ねたかったけれど。
 席に座れば、後方の都合、フェイトの後ろ姿がクラスメイト達の隙間から見えた。
 そんな彼女から思念通話が届く。

『お昼に、ちゃんと話すから。この指輪の事も、私の身体の事も』

 不吉な事態すら連想出来る言葉。けれど、肩越しに振り返ったフェイトは、それが狂言であるかのような透明な微笑みを浮かべている。
 訳が分からない。なのはは同じように思念通話を飛ばされたはやてと顔を見合わせるしか無く、昼休みまでの時間を悶々と消化する羽目となった。



 ☆



 通された応接室は極々シンプルな内装だった。著名の贋作らしき風景画を掲げた壁は落ち着いた色彩。スロフィーには調度品等のインテリアが幾つか置かれている。窓際には背の高い観葉植物。手入れの行き届いているのか、瑞々しい葉だ。その隙間から覗ける分厚い特殊硝子の向こう側には灰色の摩天楼がそびえ立つ。首都クラナガン中央部に何棟もの実験施設や関連ビルを所有し、政界や管理局に強く根の深いパイプを持つ企業の本社ビルの応接室にしては、シンプルというよりも質素という域の室内。
 数度しか袖を通した事の無い紺碧の本局制服姿のクロノが、その部屋に通されてから十五分後。その男は急いだ様子も見せずに現れた。

「さすが次元世界を統べる管理局ですな、こちらのスケジュールも無視ですか」

 待たせた事への謝罪を跨いで皮肉を飛ばした男性は、クロノとそう変わらない長身を濃紺のスーツで包んでいる。どこか傲岸さを窺わせる物腰と雰囲気の男だった。
 男性の対応に、しかし、何も期待していなかったクロノはソファに座ったまま彼を笑顔で迎えた。

「非礼をお詫び致します、ミスタ・テスタロッサ。しかし、こうでもしなければお会い出来るのは半年先と言われましたので。非常事態につき、割り込みをさせて頂きました」
「非常事態で私のところにいらっしゃる意図が分かりかねます」

 教科書通りの社交辞令も必要最低限の社会的礼儀も、何も挟まない。歓迎の握手すら、クロノは求めようとしなかった。
 それは男も同様のようだ。不愉快さを隠さず紅い瞳を薄く細めると、テーブルを挟んでクロノの眼前に腰を下ろす。
 五十歳とは思えない覇気に溢れた男性だった。無論清々しいものではない。その覇気は物々しい。不用意に近付こうとするものを威嚇する威圧感であると言い換えられる。鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。そこに刻まれた相応の皺は心労の痕跡のようにも思える。すらりと通っている背筋には着実に歩み寄っているだろう老いの気配が全く感じられず、整髪剤で整えられている金髪も絢爛なものだ。
 紅い瞳と金色の髪。フェイトの面影を見るには難しくない特徴だった。あの少女は基本的には母親似だが、しっかりと父親の容姿も引き継いでいる。
 それが、本当に些細な事だったが、少しだけ嬉しかった。
 フェイトにも、父親と呼べる存在はこうして実在している──。

「管理局史上に残る騒乱事件の関係者が、今は提督ですか。管理局の人材不足も深刻ですな」
「永遠に打開出来ない問題でしょう、人材不足というのは。それに、あの事件の関係者という認識は間違いがあります。共犯者ですよ」
「自慢げに語る事ですかな?」
「ロッティンバウンド──デバイス暴走事件の直接的原因となったシステムの販売開発元として経営破綻寸前だったゼニス社を吸収、同社の技術を独占。莫大な利益を生み出した。さらに近年は近代ベルカ式に対応する次世代アームドデバイスを管理局と協同開発。……貴方の会社はあの事件以降、順風満帆のはずですが?」
「……六年前の若い執務官も、言うようになりましたな」
「恐縮です。……皮肉のぶつけ合いはやめましょう。意味が無い」

 プレシア・テスタロッサの元夫の表情は冷たく、そして硬い。硬質な鉄仮面を連想させる氷のような顔を崩そうとはしない。
 ただ、口を閉ざした辺りから、こちらの停戦協定には同意してもらえたのだろう。時間に余裕が無いのは彼もクロノも同じなのだ。無意味な皮肉の応酬は時間の浪費でしかない上に、そんな無駄な作業に足を運んだ訳ではない。
 男性──テスタロッサは上質なソファに背を沈めると、溜息をついて口火を切る。

「ハラオウン提督。非常事態というのは何でしょうか。まさか六年前の事件を生し返したい訳ではないでしょう」
「ええ。あの事件はすでに解決しています。ですので、今回の非常事態というのは貴方の娘についてです」
「私の娘は死んでいますよ」

 テスタロッサが言った。重く沈んだ声が静かな応接室を満たし、そして潰える。初老に片足を入れている男性の瞳には、ある種の疲労感めいた感覚が闇夜のように螺旋を描いている。六年前と変わらない。あの時はこうして直接会う事は叶わなかったが、転送モニターを通して拝顔した時と全く同じだ。

「私に娘は一人しかいない。六年前に再三申し上げた通りです」
「プレシア女史とは関係の無い話です」
「アリシアが関係している時点で、すでにあります。私の返答は変わらない。六年前のままです」

 アリシア・テスタロッサの父親は頑なな態度を崩そうとはしない。ここも同じだ。PT事件の折、簡単な調書すら取らせてくれなかったあの時と。
 六年前は、テスタロッサが最高経営責任者を務める会社も今ほどの規模も技術力も影響力も無い魔導技術関連の一企業に過ぎなかった。そんな彼にクロノが捜査権を行使して用意した報奨金の額は、会社の運転資金に回しても充分過ぎるものだった。それを、財産にするにはあまりに下らない男の矜持を優先して拒絶した。
 予想した通りだ。落胆など感じない。ただ、どうしてこんなつまらない人間が遺伝子上のあの子の父親なのかと、やるせなさに胸が重くなるだけだ。

「私をつまらない男だと思われますか?」
「ええ。陳腐な男だと思います」

 言葉を選ばずに即答した。
 この男が憤怒のあまり顔を紅潮させて応接ソファを蹴り飛ばす光景を悪趣味だと分かりながら想像をする。しかし、彼は嘲笑するだけで冷淡な紳士であり続けた。

「あれと別れた時、私もそう感じました」
「……プレシア女史ですか」
「管理局に組しないオーバーSクラスの魔導師……貴方方管理局が言うところの【古代遺失物認定を受けるべき人間】でしたよ」

 赤い瞳に表情同様の嘲りの色が明瞭に浮かんだ。一握りの畏敬も感じた。【古代遺失物認定を受けるべき人間】は高ランクの魔導師に古くから使われている差別的揶揄である。今では魔力資質を持つ人間全てに使われる言われ無き陰口に過ぎない。

「発言には注意されるべきです、テスタロッサ氏。魔力資質を持つ人間の人権侵害に当たります」
「資質を持たない私のような者から見れば、貴方方全員が恐るべき人間なのです」
「……それが原因ですか、貴方達の」

 プレシアは途方も無い才能を持った聡明な魔導師だった。次元空間に直接干渉可能な攻性魔法を行使出来る魔導師が果たして管理局に何人いるか。逸材中の逸材であるフェイトやなのはすら手の届かない規格外。闇の書の主として選定されたはやてでさえ、あの大魔導師には追いつけないだろう。技術者としても研究者としても知識と教養に溢れ、彼女が遺した魔導技術の一部は一般社会に定着している。そして一人の母親としても娘を愛し育てた。
 そんな女性と、この男は、どうあっても釣り合わない。
 それは、彼自身が誰よりも自覚した事なのかもしれない。

「……私はつまらない男です。そう──つまらん男さ」

 テスタロッサの口辺から自嘲が消える。紅いはずの双眸が、仄暗い螺旋を描き、渦を巻き、奈落の底に通ずる穴のように感じられた。
 不意に不思議な感覚に襲われた。正体不明の既視感。今この男の身体を弛緩させている感情を、クロノは知っている。それこそ痛いほどに。
 それもそのはずだ。何故なら──。

「何故、後悔しているのですか?」
「こんなつまらない男でも、良心は残っているという事でしょう。塵以下の小さなものであっても」
「だったらどうして」
「死んだ娘のクローンを何も思わずに抱き締められる父親が、果たしてどこの世界にいるでしょうか」

 六年前に捜査協力してくれなかったのか──。倦怠感を漂わせるテスタロッサを跳ね除けて問う事が、クロノには出来なかった。
 彼の発言は、的を射た至極一般的な意見だろう。
 生命蘇生は喩え魔法だろうと科学だろうと最大の禁忌であり、自然の摂理の冒涜に他ならない。
 死んだはずの娘が蘇った事が、嬉しくないはずがないのだ。けれど、喪われた命が本当に還って来る訳ではない。別の肉体に生前の記憶を移植するだけの欺瞞と代用。どこまでいっても所詮は虚像に過ぎない。壊れたものは、二度と元の形には戻らないのだ。

「アリシアはもういない。私とプレシアがかつて愛した娘は、もういない」
「違う」
「違わない」
「アリシアは生きています。あの子の中で」
「三文芝居の台詞ですね」
「だったら貴方が後悔し続けているのは何故ですか。塵と喩える父性を未だに持ち続けているのは何故ですか」

 テスタロッサは何も答えなかった。視線だけが複雑に絡み合う。落ちるだけの闇の赤瞳が、僅かに揺れている。

「あの子は──フェイトは、アリシアではありません。けれど、貴方の娘です」
「お若い貴方に父親の気持ちは分からないでしょう」

 先ほどの皮肉には微動だにしなかった男の表情が微かに動いた。揺れていた瞳が射抜くような強さで明瞭な険を叩き付けて来る。
 分からないに決まっている。二十歳になって間もない、愛する女性が子供の出来ない身体である自分には一生分からないかもしれない。
 けれど──。

「父親を知らない子供の気持ちは分かります。父は私が三歳の頃に殉職しました。声も覚えておらず、顔も写真ででしか知りません」

 ──だからこそ。父親のいない子の心は誰よりも理解している。
 今更父親面をしろとは言わない。ひとときはプレシアと同等の絶望に身を委ねたに違いない眼前の男性に、それは何よりも鋭い形無き凶器だ。

「……父親に戻るつもりは、無い」

 衰える声音。彷徨う視線。屹立する壁のようにさえ感じられた初老手前の男性は、確実に逡巡していた。
 塵以下と揶揄した良心と後悔が、そうさせたのだ。
 袂を分かつように背を向け合ったとしても、彼にとってアリシアは娘であり、アリシアにとって彼は父親だ。その関係だけは未来永劫誰にも変えられない。喩えプレシアであろうと、変えられない。

「あの少女を娘だとする事が、私には出来ない。アリシアの面影があろうと……私の娘は、死んでいるのです」

 先ほどのように真っ先に否定出来なかった。

「この事実だけは──変えないで欲しい」

 PT事件の裁判の時は、割ける時間も多くはなかったので途中で打ち切ってしまったが、当時調べたかった事柄がある。
 それは、この初老の男性がアリシア・テスタロッサの事故死を知っていたのかという事だ。
 結果は今この瞬間まで分からなかった。
 彼はあの秘匿性の高い不慮の事故を、どこからか知った。そして唯一の犠牲者が愛する娘だとも知って、受け入れた。プレシアと違って、理性を崩さずに受け止めた。
 アリシアの親権がプレシアにあり、ただ名義上の父親となっていたのも甘受出来た理由の一つだろう。
 それでも彼は一度は享受したのだ。娘を喪う残酷な現実を。それを今更翻す事が出来ない。死んだ娘と事実上同一人物の少女を、蘇った娘として許容出来ない。
 つまらない矜持でも何でもない、一人の父親としての決断。撤回しろとは、まさしく父親でもないクロノにはとても言えない。そんな過酷な事は願えない。

「変える必要は、ありません」

 だから言葉を変える。

「娘の幸せを願って下さい。もし願えるなら、あの子を助けてあげて下さい」

 今度は彼が口を閉ざす番だった。
 ソファを離れたクロノは、怪訝そうに眼を細める初老の男性の脇で両膝をつく。殆ど身に付けた事のなかった制服に埃がつく。
 屈辱を感じなかったと言えば嘘になる。それが、男の矜持が成している感情ならば、それこそ下らないものだと嘲笑して切り捨てる。

「アリシアの──妹であるフェイトを救うには、父親の助けが必要なんです」

 揃えた膝の上に両の拳を置き、クロノはテスタロッサに頭を下げた。



 ☆



 艦橋に顔を出すと、エイミィがブリッジ要員のクルー達とお喋りに華を咲かせていた。リラックスした物腰と雰囲気。それでも最低限の緊張感を持続させているのだから、長年片腕を務めてくれているこの女性には頭が下がる。同席している他の局員達はエイミィのように気持ちを保つのは難しいようで、クラナガンから帰って来たアースラの艦長に大慌てで菓子を片付け始めた。構わないと片手で制して、ついでにバタークッキーを一枚頂戴する。
 陰鬱な緊張感から解放された今は、日頃は遠慮している菓子の甘味を舌の上に転がしたかった。

「おかえり、クロノ君。どうだった?」
「協力を取り付けた。期日までに指定の病院で検査を受けてくれるそうだ」

 今度はサラダ味の煎餅を齧りつつ、艦長用のコンソールを操作。かつて先代艦長が同じ事をやって、まだ執務官だった頃の自分は行儀が悪いので自重するよう咎めたのを思い出す。
 電子端末経由で届いているメールを開いて、急を要する物が無いのを確認する。特に何も無し。留守中は恙無いオフシフトタイムが流れていたようだ。
 背から歩み寄って来たエイミィが、湯気を燻らせているマグカップを差し出す。中は淹れたてのブラック珈琲。

「煎餅と珈琲の組み合わせはどうなんだ?」
「今はこっちの方が飲みたい気分かなぁと思いまして。……良かったね、本当に」

 六年前のPT事件での一件を、補佐官を務めていたエイミィは熟知している。クロノがどんな決意を秘めてプレシア・テスタロッサの元夫の下へ赴いたのか、次元航行部隊でも歩く柔軟思考なんて渾名で呼ばれて名を知られているこの女性なら想像は簡単なはずだ。
 綻びそうになる頬を、けれどクロノは意識してそうならないよう努める。楽観的になるには、まだ早いのだから。

「安心はまだ出来ない。あくまでも治療の可能性があるという話だから」
「それもそうだけど。でも、その可能性はずっと上がった訳だからさ。素直に喜ぶところだよ、クロノ君」
「……まぁ、そうかもしれないな」

 確かに気持ちが澄み切って晴れ渡るのは、まだまだ先の事だ。もしかすれば、ずっと沈鬱な翳りが射し込み続けるかもしれない。

「あの子が幸せになれる可能性が増したのなら、喜ぶべきか」

 そうならない可能性が、軽減された。ならば諸手を上げて喜ぶのも悪くはない。
 この為に自分が恥辱と屈辱を自ら這いずるように啜り、土下座という行為に及んだと知れば、フェイトやエイミィはどんな顔をするだろうか。
 苦笑をするエイミィから暖かなマグカップを受け取る。舐めるように口に入れれば、たちまちの内にバタークッキーの甘さが蹴散らされた。いつもより少々キツめの苦味が摩耗した心情に効く。
 エイミィとお茶会を開いていた他のクルー達は談笑を控えて、不安な視線を向けて来る。アースラ所属のスタッフ全員に、フェイトが自分の身体の事情を語ったのは昨日の事だ。帰還したクロノの出先を知っている分、彼女達の関心事の穂先がここに集中するのは無理も無い。階級的にも立場的にもアースラではナンバー2に当たるフェイトも、実際年齢は十五歳で艦内最下層組だ。昔からずっとそうだが、所属スタッフ達にとって、フェイトは可愛い妹分なのである。
 同時に、海鳴の大学病院で検査結果を教わったのも昨日だ。内容は予想通りのものである。今のところ、シャマルが得ているフェイトの身体状態と変わらないものだった。子宮の健康状態や身体の体力面から、地道な治療を続けても絶望的な確率となってしまう自然妊娠を諦めて、体外受精を行うよう強く勧められた点が違うと言えば違うだろう。ターナー症候群を患う女性の多くは今回のように子宮等の状態が良好で妊娠自体可能な環境が整っている場合が少なくなく、治療を続けながらも、体外受精で妊娠・出産するケースがあると、石田医師が丁寧に説明してくれた。
 ところが。肝心のフェイトが体外受精に難色を示している。

「最初から最後まで自分の身体で育てたいって思いが、フェイトちゃんは特に強いと思う」

 羊水に満たされた母親の身体の中で育まれず。冷たい培養液の中で創られてしまった。フェイトには普通の母親に捨て切れない憧憬がある。

「フェイトちゃん、しばらくは休職するの?」
「……気が進まない様子だったが、そこは納得させた。通院しながら二束の草鞋は、な」
「その辺り、クロノ君がしっかりしないと駄目だよー。フェイトちゃん、頑張り屋だから。ここにひょっこり顔とか出しちゃいそう」

 それはそうかもしれないと、クロノも長年の相棒と一緒に苦笑いを作る。操作に合わせて仮想ディスプレイが構築され、電子端末のメールを確認する。急ぐ用件や案件は何も無しだ。艦船を半日を空けて何の業務連絡も来ていないのは珍しかった。
 エイミィがニコニコと満面の笑みでいる事に気付く。彼女が心底愉しそうにしている時は、クロノにとってあまり歓迎出来ない事態になっている事が往々にして多い。

「クロノ君も頑張り屋だねー」
「レティ提督の計らいで広域哨戒任務から外されたとは言っても、L級艦船を遊ばせておく訳にはいかないだろう?」
「まぁ、それはそうなんですけどねー」

 溜息をつくクロノ。エイミィは含みのある口調で口辺の笑みを深める。そこに悪戯を実行に移す直前の邪悪な愉悦を感じて、クロノは嫌な感覚を覚えた。

「結婚が決まったクロノにいつものお仕事量は無粋かなと思いまして。拒否出来るのは拒否致しました」

 勝利を確信した会心の微笑。背後の女性クルー達も慎みを保ちながら色めき立つ。猛烈な視線がクロノの左手に釘付けとなる。慌てて腰の後ろに隠せば、エイミィ達が一斉に不満の声を洩らした。

「けちー」
「けちじゃない。事ある毎に結婚と連呼するのはやめてくれ」
「だって最近のクロノ君は冷やかしても昔みたいな反応くれないもん」

 二十三歳を迎えて綺麗な少女から理知的な女性に見事な脱皮をした彼女は、残念ながら中身はあまり変化していない。将来の彼女の貰い手には今の内から同情心を禁じ得なかった。

「フェイトちゃん、なのはちゃん達にも話したのかな?」
「今日辺り話すとは言っていた」
「じゃ、今日はこのままお帰りだね、クロノ君」
「……何故そうなる」

 身体を退かしたエイミィが、その先にある転移室へ手招きする。その意図が読めずに仏頂面を形作るクロノ。

「いくら話さないといけない事情でも、一番仲の良い子達に話すのは、色々考えちゃうと思うの」
「しかし」
「それに、フェイトちゃんの幸せは、お母さんになるだけじゃ達成出来ないの。その指輪は形だけなのかな?」

 腰を曲げたエイミィが、下から覗き込むように顔を近付けて来る。瞬きを繰り返す悪意の無い純な瞳は、今も昔も少しも変わらず、自分独りでは気付けない事柄を言葉を使わずに教えてくれる。
 左の薬指に填めた指輪をなぞる。なるほど、確かに先ほどの自分の発言には誤りがある。
 フェイトの幸せは、母親になる事だけではない。
 あの子を幸せにするのは自分だ。それだけは。その役割だけは誰にも譲るつもりはない。
 この指輪を渡す時に──彼女に誓ったのだから。






 to be continued
















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