魔法少女リリカルなのは 短編







 アリシア.8


 お昼休みに話すつもりでいたが、考えてみれば昼食を挟みながらするような内容ではなかった。屋上のいつもの場所で全員でお弁当を広げて聴聞態勢を綺麗に整えた友人達に放課後でもいいかなと引き伸ばしの提案をしたら、予想通りの猛烈なブーイングが飛んで来た。自分も彼女達の立場にあって同じ事をされれば眉間に縦皺の一本ぐらい刻むだろう。
 それでも詳しくは放課後に、というところは譲らなかった。心優しい友人達に、気を重くさせたまま午後の授業を受けて欲しくはなかった。
 どこから話す事が適切か。母が作ってくれた弁当の上で箸を彷徨わせながら思案して。

「私ね。お母さんになれないかもしれない」

 大きな懸念と、少しばかりの苛立ち。そんな感情が綯い交ぜにされた友人達の視線を感じながら、フェイトはそう言った。
 意識もせずに普通に言えた。
 全員が揃って息を呑む。はやても、アリサも、すずかも、昨日のテレビドラマの内容を語るような平坦な口調で告げられた内容を、飲み込めていない様子だった。

「──それって」

 一番先に理解をしたのは、なのは。

「……生理が、来ないの。来ないというか、その、来てないって言わないといけないか」
「ちょ、ちょっと待って」
「不完全なんだって、女の子として。私の身体は……ちゃんと、出来てないんだ」

 そこで、はやて達もフェイトの言葉が暗に示す現実を把握したようだった。
 はやてが箸を置く。いきり立つ何かをぶつけるように大きな音を立てて。自慢のお手製弁当の様相が崩れてしまったが、彼女は省みない。

「不完全なんて、言うもんやない。フェイトちゃんの健全なバストアップに貢献した者として言わせてもらえば、フェイトちゃんの身体は腹立つぐらい熟れたええ身体や」
「うん、感謝してる。はやてのお陰でクロノも喜んでくれてる」
「……真顔でそう返されても、ちょっと困るで……?」

 興を削がれたのか。はやてが言葉を濁す。
 アリサもはやてと同様に穏やかではない顔つきで口を開こうとするが、すずかが手で制した。

「フェイトちゃんは……赤ちゃんを、産めないって事なの……?」

 声に出すのは、少なからず抵抗があった。コクンと首肯すれば、彼女達は顔色を喪う。

「ターナー症候群って言う病気でね、遺伝子疾患の不妊症なんだ。ちょっと前に分かって、それで病院行ったり色々してて」
「……それでこの前お休みしたの?」
「うん。ごめんね、心配かけて」

 今度は努めて明朗に言った。これでこの話は一旦おしまいだと、弁当に箸を入れる。母の甘い卵焼きに舌鼓を打つ。
 そんなフェイトを、誰も倣わない。誰の手も動かない。
 詳細を話さなくても、これだけで他に何がフェイトの身に起こり、その心にどんな翳を今も落としているのか、愚鈍ではないなのは達ならば看破出来るだろう。
 やはり顰蹙を買ってでも放課後まで引き伸ばすべきだっただろうかと己の迂闊さに肩を落とす。青空の下で皆で取り留めの無い談話をしながら食事をするのが、学校での一番の愉しみなのに。

「それは、治るの?」

 なのはが訊ねた。
 無二の友は、はやてやアリサのように感情を尖らせてはいなかった。すずかのように自分の身が切り裂かれるような鎮痛な面持ちでいる訳でもなかった。
 事実を事実として、なのはは受理している。そこに哀れみや憐憫が入り込む間隙は無い。
 固唾を呑む瞳。虚偽を許さない風情。
 それが、なのはの優しさであり、強さだ。

「……治る可能性は、本当に低いんだ。お母さんになる方法自体は沢山あるんだけれど」

 弁当箱と箸をそっと置き。下腹部に手を遣る。動いていない大切なそこを、静かに労わる。
 いつかここに自分とクロノの子が宿る事を信じて。

「私は、最初から最後まで、自分の身体で、自分の子供を、産みたい。だから今度から治療でまた欠席とかするかもしれない。そしたら、ノートとかいいかな?」
「……うん。勿論」
「管理局の方も、少しだけ休職する事になってて。私は大丈夫って言ったんだけど、クロノが駄目だって聞いてくれないんだ」
「……当たり前だよ」
「でもちょっと過保護って言うか。局の児童保護施設に通えるかなって思ったら、クロノったら渋い顔するんだよ? あんまり出歩くなって。エリオ達に会えるかなって思ったんだけど」
「……休職中だからね」
「──心配、ないから」

 左手の薬指。そこで穏やかな陽の光を照り返す飾り気の無い指輪に触れる。手触りは冷たい金属のそれなのに、不思議と暖かい。これを填める為に手を軽く握ってくれた彼の温もりが、そのまま残っているような、そんな心地良い錯覚に囚われる。
 無意識にでも無く。意識をしている訳でも無く。フェイトは今朝教室でそうしたように、ありのままの笑顔でなのはを直視した。
 ──昨日までは、きっと出来なかっただろう偽物でもない、無理な作り物でもない、飾らない微笑み。

「もう沢山泣いたもん。落ち込んだりもした。でも、クロノがいるから。なのはも、はやても、アリサも、すずかも、皆がいるから」

 これから時間のかかる治療になろうと、治る見込みがゼロに等しくても、笑顔でいられる。

「だから、皆いつも通りで行こう。笑顔で」

 それはとても困難な要求だろう。
 でも心配は要らないのだ。
 やるべき事は分かっていて。その為の土台作りだって進んでいる。懸案事項は何も無い。大変な二束の草鞋も、少しの間だけお休み。クロノも、それに合わせてくれる。リンディもアルフも、側にいてくれる。頼りになる姉貴分のエイミィもいる。
 日常を支えてこの痛みを自分の事のように思ってくれる友達も、こうして眼前にいてくれる。
 落ち込んで視線を下に下げる要素は徹底して、何も無いのだから。



 ☆



 海鳴のマンションに戻ったクロノは、早々に普段着に着替える。制服は今も昔もやはり好まない。立場上は常に正装であるべきなのだが、窮屈感が否めないので提督になった今でも執務官時代愛用のインナーを愛用していた。
 二着ほどのジャケットが下がるだけの寂れたクローゼットに制服を納める。閉めようとした扉の隙間に、室内を赤錆色に染めていた夕焼けが射し込み、ハンガーにかけられた青色の制服に濃い陰影を刻む。
 高官用に良質な生地を贅沢に使った高価な代物だ。自分には過ぎたものであると、今でも時々感慨に耽る事もある。過去の自分の罪と罰に対する罪悪感が、制服を好まずに敬遠している本当の理由だ。
 これに袖を通す機会は、この先着実に増える。アースラの老朽化も顕著になりつつある。艦長職について早々に別艦に異動は遠慮願いたいが、それは我侭というものだ。
 フェイトも執務官を続けるはずだ。当然ではないか。執務官になるのが、彼女の一つの夢だったのだ。第二のプレシア・テスタロッサを創らない事を目指して、あの少女は時空管理局入局を決意したのだから。
 かつての自分と同様に。
 自分と同じような思いを──こんなはずじゃない人生を歩む人を無くそうとして。
 そこにどんな危険が待ち構えていようとも。フェイトは躊躇無く飛び込んでゆくはずだ。あの子はそういう少女だ。
 対して、自分はどうだろうか。過去の罪と清算し贖罪して。提督として経験と実績を積んでいけば、昇進の話も上がるかもしれない。そうなれば、強力な権限を得る代わりに責任という二文字に束縛される。
 現場に立ち続けるだろうフェイトからは遠ざかる。組織的な距離は、望まずして二人の間に横たわる。この制服を羽織続ける限り、ずっとだ。
 事務的な補佐官は就いても、捜査現場では単独行動を強いられる機会が執務官は多い。常に危険と隣り合わせであるにも関わらず、非常時には独りだ。その時、自分は遠く離れた安全な艦船の艦橋にいる。
 この事実を発作的に思い出して、歯痒さを覚える時がある。かつて母は、執務官となってアースラに配属された自分に、きっと同じ感情を抱いた事だろう。酷い親不孝者だ。

「………」

 クローゼットの扉を、そっと閉める。
 執務官──魔導師そのものを、辞める。そんな提案を彼女にしようかと何度か思慮した。勿論、答えは最初から決まっている。これはクロノの我侭でしかない。リンディも思いを口にする事をしなかった。
 でも。この先フェイトが母親になる為の治療に専念して、仮にそれが実を結んだ場合は、心の中の葛藤だけで済ませる事が果たして自分は出来るだろうかと、自問自答してしまう。
 母親になりたいと願うフェイト。ならば、凶悪犯罪や危険度の高い古代遺失物を扱う事件から距離を置くべきではないのか。

「まったく。一つの問題が解決に向かえばまた一つ何かが噴出するな」

 慢性的な悩みは思考を低下させて判断を鈍らせると、かつての恩師の教えを思い出す。クロノは溜息をついて玄関に急ぎ、靴に踵を落として爪先を蹴った。
 問題は、まだまだ沢山ある。
 不安だって、いくらでもある。
 懸案事項は、山積している。
 これらを一つずつ紐解いて向かい合うのは、クロノ独りでは難儀だ。
 けれど、フェイトと二人なら何とかなる。
 彼女の事を自分独りが悩んでいても意味が無い。
 それでは、あの子を幸せには出来ない。
 自分も──幸せには、なれない。
 マンションを出て。学校を目指しながらポケットに捻じ込んで来た携帯電話で時刻を確認する。放課後を跨いでかなり時間が経っている。家にはいなかったので、なのは達とどこかで話し込んでいるのだろうか。
 携帯電話でメールを飛ばす。この世界では便利な多目的デバイスでも、殆ど使わないクロノにとってはいつまで経っても慣れない機械だ。両手を使って簡素な文面を送信するのに三分も使ってしまう。
 商店街を通過している間に、返信がある。

「……翠屋にいます」

 踵を返して素通りしてしまった馴染みの喫茶店に急行する。寄り道の学生達で賑う店に入ると、窓際の席で愉しげに談笑している少女五人組を見つけた。
 高町士郎に軽い会釈をして席に向かうと、フェイトがはにかみながら出迎えてくれた。その他のなのは達も、性質の悪い悪戯を画策する子供達と変わらない笑みで──物静かな月村すずかもそうだったので警戒レベルを上げた──で見詰めて来る。
 示し合わせたようにフェイトの隣が空いていたので、かしましさに及び腰になりながら腰を下ろす。オーダーを取りに来た高町桃子に冷やかされて気恥ずかしさが加速したが、そこは二十歳を超えた男の矜持を盾に顔色どころか億尾にも出さなかった。

「お仕事はどうしたの?」
「切り上げて来た」

 エイミィに小突かれるようにアースラから放り出されたとは、この場でそう口を割れば今後の男の沽券に関わりそうだったので誤魔化した。嘘はついていないので問題は無い。
 ところが。少女達は揃って込み上げる笑いを堪えるように口元を押さえて喉を鳴らす。アリサに到っては本当に名の知れた大企業の令嬢なのかと訊ねたくなるほどにテーブルを掌でバンバン叩いて眼元に涙まで蓄えて耐えていた。
 ただフェイト一人が微笑を崩さない。彼女は怪訝そうに全員を見渡すクロノに、そっと自分の携帯電話を差し出した。受け取ると、小さな液晶画面は受信メールの開封画面になっている。
 眉根が寄せられていたクロノは、自分の耳が瞬間湯沸かし器の如く猛烈な速度で朱色になるのを感じた。

「エイミィさんは本当によう出来た補佐官やわぁ!」
「はやてか! 手引きをしたのは!?」
「フェイトがクロノさんを可愛いって言う理由が分かったわ! 中学生レベルじゃない!」
「君達は現役中学生だろう!」
「予想、外れちゃったね、なのはちゃん」
「クロノ君の甲斐性無しー!」
「人を賭け事に使うな!」

 あの服を着て歩く柔軟思考が狡猾な参謀となって、妹分に悪魔の囁きを施したのだ。無理矢理業務を切り上げてクロノの尻を蹴飛ばしてフェイトの迎えに行かせた事を、エイミィはしっかりと報告をしていた。そうしてここで甘いケーキに舌鼓を打ちながら、やって来るだろう自分が事実を告げずに誤魔化して来ると賭け事でもしていたのだ。
 不愉快な汗が首筋から背中にくっきり浮かぶ。たちどころに口の中の水分が強奪された。集中する周囲の視線も痛々しい。肩を怒らせているところに運ばれて来たアイス珈琲を味わわずに一口で嚥下する。

「クロノ」

 フェイトが呼ぶ。教師が教え子に問題を問うような優しい響き。それでも火の灯ったクロノの羞恥心の鎮火には力不足だ。

「フェイト。君もこういう趣味の悪い事をだな」
「ありがとう、迎えに来てくれて」

 眼を細めて。柔らかな頬をもっと柔和にして。春の木漏れ日のような温もりを宿して。フェイトが言った。
 喉元を通過しかけていた咎めが逃げる蜘蛛の子となって体内のどこかに霧散する。口の中をもごもごさせて唾を何度も飲み込み、微笑もそのままに手を重ねて来る愛する少女を無碍には出来ず、クロノは苦虫を噛み砕いた顔でなのは達を睥睨した。
 そんな儚くか細い抵抗は、非力な草食動物を捉えた肉食獣となった少女達には何の効果も発揮しなかった。フェイトの奥側で窓際の席に座っていたすずかがおもむろに席を離れて、何故かフェイトが空いた彼女の隙間に移動。必然的にクロノも一つ隣の席へ移る。そうすると、椅子取りゲームの要領でクロノが座っていたところにすずかが上品な仕草で腰掛けた。
 しまったとクロノが自身の迂闊さに舌打ちの一つでもしたくなった時には、もう手遅れだ。構築された見事な包囲網の中で青年提督は懊悩する。矢継ぎ早に降りかかる質問は──。

「式はいつやるんや?」
「やっぱりクラナガン?」
「あーそれはこっちでしてもらわないと。そっちでやられたら私やすずかが行けないでしょ?」
「それなら、お姉ちゃん達が式で使った教会が近くにあるんですけど」

 質問攻めを皮切りに口々に勝手な理屈を捏ね始める。正直、殆どが思考の片隅にも無いような事ばかりだ。
 助けを求めるようにフェイトを見遣るが、彼女は幸せそうな微笑みを絶やさず、テーブルの下でクロノの手を握るばかり。味方がいるはずなのに見事な孤立無援っぷりだった。
 翠屋のピークタイムが終わって、慌しかった店内がくつろいだ雰囲気になった頃──時間としてはクロノが入店して一時間以上──ようやく解放された。支払いは何の議論もなされないまま全額クロノの財布に託された。
 はやてとアリサはご馳走様でしたーと、レジ前で小刻みに身を震わせるクロノの背後を意気揚々と通過する。思わずその首根っこを鷲掴みしたくなったが、すずかとなのはからは懇切丁寧に謝辞を承り、何とか自制心を働かせた。

「あれじゃはやてやアリサの将来が心配だ」
「二人とも世渡り上手になるかもね」

 はやてはもうなっていると溜息をついて痛感しながら財布を出そうとするが、相変わらず手がフェイトに捕まっている。

「フェイト、手」
「はーい」

 無邪気に振る舞い、フェイトが手を離す。一時間も繋ぎっぱなしだった為に軽く痺れている。財布から紙幣を苦労して出して、ずっと苦笑して見守っていた高町士郎に渡す。

「男はこういう時は黙って貧乏クジを引いておくものだぞ、クロノ君」
「……努力します。まだまだ経験不足です」

 士郎のような包容力を持つに到る道は長く険しいようだ。レシートと釣銭を貰うと、早速フェイトが手を絡めて来る。背中を炙られるような気恥ずかしさに小突かれて咎めようとも考えるが、何か問題あると上目遣いで訊ねて来るフェイトの無垢さの前に精神が速やかに擱座してしまった。
 外に出ると、空はとっぷりと夜闇に浸かっていた。街頭には常夜灯が光り、商店街を行く人の流れは、自由な放課後を謳歌する学生達から帰路を急ぐサラリーマン達に変わっている。軒を連ねる店の中にも、閉店業務を始めているところが幾つかあった。

「送ろうか?」

 待っていた女子中学生達に訊ねると。

「近くに迎えを呼んだから大丈夫。そういう事言ってると、下手なナンパみたいだからやめた方がいいわよ、クロノさん」
「お気遣いだけ頂きます。ありがとうございます」
「変なの来たらミストルティンするから問題無しー」
「私は家がすぐそこだから」

 気遣いは一斉に無碍にされた。この子達が普通の少女達ではない事を失念していた。
 商店街の出口までは向かう先は一緒なので連れ立って歩く事になったが、そうすると、なのはがひょっこりと側にやって来た。

「フェイトちゃん。ちょっとクロノ君借りてもいい?」

 片眼を瞑り、両の掌を合わせて拝むようにしてなのはが問う。フェイトは思慮する様子も無く破顔一笑で承諾すると、とことこと先を進むはやて達の下へ駆けてゆく。
 なのははすぐに話題を振って来る事は無かった。口を開こうとして、その度に思いとどまるような素振りで口を閉じる事を繰り返す。
 この少女にしては煮え切らない態度だった。
 そうこうしている内に商店街の出入り口となっているゲートが視界に入った。そこからは広大な宅地になっている。なのはの自宅までは距離もあるが、はやてやすずか、アリサとはこの辺りでここで離散する。フェイトを先に行かせた以上、彼女の耳にはあまり入れたくない用件があったのだろうが──。

「クロノ君」

 意を決したように、なのはが呼んだ。前を行くフェイトの後ろ姿を見詰めたままで。

「フェイトちゃんを──絶対に、守ってね」

 翠屋で見せていた十五歳という歳相応の少女とは一線を画する、強張った顔。
 その一言で、クロノはフェイトがなのは達にこの一週間余りに起こった出来事をすべて吐露したのだと悟る。今日打ち明けると聞いていたが、本当に全部を告げてしまったのだろう。

「私に出来る事があれば、言って。何でもするから」
「こっちにいる時、無理をしないように見守ってくれるだけでいい。数週間は休職扱いになる」

 なのはが強く肯く。

「……哀しませたり。泣かせたり。そういうの、絶対にさせちゃ駄目だからね」
「ああ。もしさせたら、得意の砲撃でも見舞ってくれ」
「うん。全力全開でやっちゃう」

 出入り口ゲートには、すでにアリサの迎えのリムジンが停車していた。すずかも便乗して帰宅するようだ。さらにザフィーラが愛らしい仔犬フォームでひょっこりとゲートの脇に鎮座している。
 それぞれにまた明日と挨拶を告げて分かれたところで、なのはが妙に芝居がかった仕草で翠屋に忘れ物をしたと踵を返して商店街を駆けて行った。靡く栗色のサイドポニーを見送ると、クロノはフェイトを二人だけになっている。
 顔を見合わせて、密かな気遣いのつもりが実際は筒抜けな高町なのはに苦笑し合う。

「帰るか」
「うん」

 今度は、クロノから手を繋ぐ。二人は寄り添うように帰路についた。



 ☆



「部屋を一緒にするのは反対!」
「ア、アルフ。でも一応、その……き、決まったんだよ、もう」

 夕食後にこれから先の事をアルフに相談すると、省エネモードを解除して烈火の如く怒り狂った。ちなみにクロノは風呂に行ってその場にはいない。
 鋭利な八重歯を光らせて獰猛に唸る使い魔は、フェイトの左手の指輪を見るや否や心底面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「今時の夫婦で寝床がずっと一緒って早々無いよ! あんた達の寝室が共同になると猿になる! 毎回変に固まった布団シーツ洗うこっちの身になれ!」
「ご、ごめんなさい」
「……まぁ。これからは治療とか色々あるから、どうなるか分かんないけど。いくら使い魔でも、そういうモノの処理はちゃんと自分でやる事。いい?」
「う、うん」
「それから、クロノの奴、時々穴開いた下着そのまま使ってるから。洗濯しててビックリした。ちゃんと眼を光らせないと駄目だからね、あいつの身嗜みに対する意識」
「イ、インナーの換えは沢山あるから大丈夫だよ」
「そういう問題か……!? とにかく!」

 硬い自慢の拳をテーブルに打ち付ける。短い騒音。身を縮めさせていたフェイトは、さらにビクンと細い肩を震わせた。
 アルフがここまで怒るとは全く予期していなかった。クロノからの話は昨日の内に報告はしていたし、その時は祝福してくれた。そこに偽りや誤魔化しが無い事は、彼女とのラインが無くとも、グシグシと鼻水を吸い込んで嗚咽を洩らす姿を見ていれば分かる。
 主の幸せが使い魔の幸せ。彼女のそんな口癖は、今も昔も変わらないなと、久しぶりに長い茜色の髪を撫でながら感じていた昨日が何だかセピア色の遠い記憶に思えた。どうしよう。何とか矛を収めてもらわないと風呂を終えたクロノに噛み付きそうだ。

「……子供が出来たら、そいつに見られて困るようなものは自分で片付ける癖を今から付ける事。いい?」

 すっと、アルフが首の後ろに腕を回して来る。
 細身の自分よりずっと鍛えられている腕は、何だかとても懐かしい香りがした。
 こうやって抱かれるのは、一体どれくらいぶりだろうか。この髪が鼻先を掠める度にむず痒くなってクシャミを我慢したのは、何時振りだろうか。
 暖かな懐古。郷愁のような感慨。こうやって守ってもらった。こうやって労わってもらった。本当の自分をはじめる前の自分は、この腕に支えてもらっていた。
 アルフの背が微かに上下している事に気付く。迸る怒気は開かれている窓から吹き込む風に攫われて、どこかへと流されてしまったようだ。
 情けなくて駄目なマスターの為に、不必要なモノも含めて沢山の辛苦を背負った大きくて頼り甲斐のある背中を、すっと撫でる。
 昨日も、こうだった。
 予想通りの診断結果を、担当医と石田医師から下された。予想はしていた。クロノやリンディも側にいてくれた。
 覚悟は出来ていて当然であって。悪い予想が的中したという落胆と、腹の底に重く沈み込むようなショックは、振り払う事が出来なかった。担当医が治療についての方針を説明してくれたが、申し訳無い事に、あまり記憶には残っていない。
 ただ一つだけ強烈な印象となって頭に刻まれた提案がある。それはその場で脊髄反射で拒絶していた、最も冴えた状況の打開案。
 体外受精。子宮は健康で体力も問題無いフェイトは、体外受精で子を身篭る事が可能と診断されている。彼女が『母親』に並々ならぬ憧憬を持ち、静かに固執しているのを、担当医はしっかり見抜いていた。だからこその現実的な提案だった。自然妊娠の確率が数パーセントでは期待値的に希望を擁くには無理がある。多くの患者と接して来た医者に言われずとも、それはフェイトも含めてその場にいた全員が知るところだった。
 フェイトは、担当医のそうした意見を、即断即決で拒否している。
 それでは自分と同じなのだ。喩え子宮で育まれて最終的には出産の苦しみを味わう事になろうと。一度でも冷たい無機物に触れてしまうその方法を、フェイトは頑なな態度で否定した。
 強情な我侭。無意味な自己満足。そんなのは重々承知だ。フェイトの主張を困惑しながらも親身に聞いた担当医は、石田医師の言う通り、口は悪いが良く出来た産婦人科医であろう。
 体外受精は机上の話で終わり、治療は現実的ではない自然妊娠の方向へ切り替えられた。治療期間は長くなる上に何時終わるのかも分からない。言わばゴールが分からないマラソンだ。それを始める事にフェイトは躊躇わなかった。
 その時も、今日帰る時にそうしたように、ずっとクロノの手を握っていた。その手が、帰る時にこの指輪を──。
 扉が開いて首にタオルを引っ掛けたクロノが入って来ると、彼は珍しい大人のアルフを見て眼を丸くする。

「……どうしたんだ?」
「っさいこのヘタレ!」

 ばっとフェイトの懐から身を翻したアルフが、鋭い蹴りをクロノの顔面に見舞う。人間の反射神経では追随出来ないその身のこなしと速度は、現役を退いても全く衰えが無い。密かに訓練を積んでいるのだろうか。
 その点、クロノにも同じ事が言える。半歩ほど背後に身を遣った彼は、鼻先でアルフの蹴りを防御していた。

「ほ、本気で蹴るか……!?」
「久しぶりに訓練!」
「今からか!? せめて風呂に入る前にしてくれ! また汗が……!」
「フェイトと背中流し合う言い訳作らせてやるんだから感謝しろ!」
「アルフー。思い切ってやっちゃってー」
「フェイト!?」

 マスターの心を綺麗に熟知して理解してくれている使い魔の背を声援で押す。よっしゃと両の拳をぶつけ合ったアルフは、獰悪な笑みを浮かべて、頬を引き攣らせるクロノへ跳んだ。
 もしも子供が出来たのなら──アルフのような元気な子に育って欲しいなと、フェイトは開始された苛烈な格闘戦を眺めながら思う。
 自分やクロノを、周りの人達を、困らせてしまうぐらいに元気に、快活に、幸せに。
 アリシアの記憶が、ふっと蘇る。子供らしさを滲ませた我侭で、母親の手を焼かせていた彼女。プレシア・テスタロッサは、困り果てながら、けれど幸せを噛み締めるように微笑んでいた。プレシアは、甘い方だったのかもしれない。
 母性の強い山猫を媒介にしたリニスは、厳しさと優しさと兼ね揃えた理想の母親象かもしれない。フェイトにとっては、彼女が育ての親──三人目の母親のようなものなのだから。
 リニスと触れ合い、共有出来た時間は、多いとは言えなかっただろう。
 だからこそ、決して多くなかった時間の流れはとても充実していた。密度の濃い時間とは、きっとあの流れを指すのだろうと思う。今でも鮮明に思い描ける。
 愛しさと切なさが混合して、深く深く入り交ざった不思議な幸福感で胸をいっぱいに出来た貴重な貴重な時間。
 リニスが好きだった。大好きだった。彼女の慈愛と温もりは、一生忘れない。消えずに心に灯り続ける。我が子のように──いや、我が子以上に自分を愛して育ててくれた山猫の使い魔。でも、その立場から一定の距離を保ってもいた。それが分からないほど、フェイトの感受性は乏しくはない。幸か不幸か、他人の感情に敏感だった所為もある。

「リニス。私、もしもお母さんになれたら、リニスみたいに厳しく出来るかな……?」

 彼女の存在は、もう記憶だけだ。フェイトとアルフの、思い出の中にしかいない。
 でも、きっとこう言ってくれるに違いない。

 ──貴女なら出来ますよ。私のマスターの、プレシアの娘ですから──。

 幻想でも夢想でも何でもない。リニスは、笑顔でそう言ってくれる。
 ふと外野から大声が飛んで来た。

「待てアルフ、せめて指輪を外させ……!」
「外したらマジで殺すぞヘタレ!」
「違う、付けたままだと傷が付くからだ! そういうのだからいつまで経ってもザフィーラと……!」

 口は災いの元。苛烈な格闘は流血の死合に発展した。



 ☆



 一日の汗と疲れを気持ちの良い冷たいシャワーで洗い流したというのに、全力で格闘を強要。しかも止めに入るべき人間はけしかけるように応援を送る始末だ。

「……酷い目にあった」
「クロノも格闘訓練は今はあんまりやらないから、良かったんじゃないかな?」
「状況にもよるだろう。どうしてリビングでやらなきゃいけないんだ、それも唐突に」
「私達的には唐突じゃなかったもん」
「肝心の僕にとっては唐突だ、まったく」

 こつんと指先で額を小突けば、加害者の一人となったフェイトがベッドにころんと転がった。シンプルな黒の寝間着姿の彼女は、二度目のシャワーを済ませて、わしゃわしゃと黒髪を乱雑に拭いているクロノを眼線で追う。
 何か期待されているなと感じながら、取り敢えず今は素知らぬ振りをして机に腰掛けて、電子端末を立ち上げた。アースラを中継して自分宛に来ているメール等を確認しようとすると。

「くろの。いっしょにねよ?」

 淫蕩な響きも淫猥な想像も無く。子供が親に甘えるそれで、彼女が提案した。
 仮想キーボードを走ろうとしていた指が、宙で制止する。肩越しに振り返ると、眼を細めてニコニコと微笑むフェイトがベッドで枕を抱えてこちらを見詰めている。
 拒否するつもりは無かった。伝えなければいけない事も、ある。

「少し待てるか?」
「今ー」
「……少し待っててくれ」
「眠いからやだ。それにエイミィが言ってたよ? メールのチェックは脳に覚醒を促して、缶珈琲何本分ものカフェインを摂ったのと同じになるんだって」
「……生憎だが、僕は缶珈琲を五本飲んで眠れる体質だ」
「改善して下さーい。子供に悪影響です」

 枕──フェイトも一緒に使う事が多いので大きめの奴だ──を元の場所にぼすんと戻して。フェイトは同意も得ていないのにベッドを整えて寝そべる。
 子供という言葉は、今は最も強烈な攻撃力を有した一言だろう。クロノは溜息をついて端末を操作。回線を遮断して立ち上げたばかりの愛用の機材の電源を落とした。
 電気を消すぞ、と告げると、フェイトは何か思い返した様子で慌しく身を起こした。再び枕を胸に抱きこんで壁に寄りかかり、カーテンを片方だけ開けると、何かを捧げるようにして両手をクロノに差し出す。

「どーぞ」

 この快活さと奔放さと無垢さは、子供の悪戯心を喪わずに持っている彼女の、本質的なところ。甘えたい時期に、一番甘えたい人に、甘えられなかった彼女の、微笑ましい弊害。
 電気を、消す。光は差し込む月の淡い白銀色のみ。床板が朧な光を照り返す。それは壁に背を預けたクロノと、彼の胸をベッドにしたフェイトの、それぞれの左手の薬指にある指輪を、照らす。
 指輪を渡したのは、診断結果を聞いて、今後の方針を決めて、自宅に帰った後。リンディや同行していたシャマルが局の仕事に戻った後だったので、二人きりだった。
 猫のように喉を鳴らしたフェイトが、僅かに体温を上げて紅潮した頬をクロノの胸に埋める。そうして、左手をより月の柔らかな光が当たるところへ翳した。

「これをくれた時のクロノ……可愛かった」

 フェイトが夕食の支度を始めたので、終わるのを待って。

「アースラの艦長着任式の時より緊張したよ」

 いつもと変わらない時間の流れの中。

「嘘ばっかり。着任式って言っても、スタッフ全員顔見知りだったよ」

 時間が無かったからあり合わせだと申し訳なさそうにしながら、小食家のクロノでも箸が進む夕食を、フェイトは慣れた様子で作ってしまった。

「いや。同席していたなのは達の視線が、こう」

 冷めるといけないので、渡したのは食事の後だ。

「クロノは前科持ちだからね」

 渡す時の練習はしなかった。ヴェロッサに、君は不器用だから練習すれば失敗する確率を上げるだけかもねと軽口を叩かれたからだ。

「耳が痛いな」

 実はユーノにも同じ事を言われた経験がある。その時は、告白も出来ない腑抜けに言われたくはないと切り捨てた。その後は掴み合いの喧嘩一歩手前まで火花を散らした。

「……頼まれても、外してあげないから」

 彼らの言う通りだ。気取るのも、見栄を張るのも、飾るのも、装うのも、苦手だ。
 だから食事を終えて一緒に片付けをしようと席を立った時、フェイトを呼び止めた。不思議そうに見詰めて来る彼女に歩み寄って左手を取り、ポケットに忍ばせていたそれを、ゆっくりと填めた。
 その時のフェイトの顔は、恐らく一生忘れないだろう。驚いた後は、細い顎を震わせて、紅い瞳に沢山の涙を溜めて。僕にも填めてくれるかと優しく耳元で囁いて、自分の分を渡して。
 今こうして、二人の指で、同じ白銀の煌きを一点の曇りも無く宿している。永久に変わる事の無い契りの証明として。

「頼むから、外さないでくれ」
「今日外そうとした癖に」
「アルフに言ってくれ、それは」

 唇を尖らせるフェイトの身体を寄せる。後ろから抱くようにしていたので、肩に顎を乗せて、その耳に頬を添えた。甘い匂いを吸い込めば、心の奥底に果てない安堵が海のように満ちてゆく。
 くすぐったそうに身悶えるフェイトの、下腹部に手を置く。

「くろの?」
「完治する可能性は、まだ無いけど……遺伝子治療の術が見つかった」

 手の甲に忍び寄っていたフェイトの手がピクンと止まった。

「でも、私の遺伝子は」
「シャマルにはもう伝えてある。……テスタロッサの血は、まだある」
「で、でも、それは」

 アリシアの父親について、フェイトは執務官になって間もない頃、自力で調査をしていた。PT事件の裁判記録や事件資料すべてに眼を通したともエイミィから聞いている。
 その結果を、クロノは知らない。彼女がその作業に手を伸ばしていた時には自分は遠い次元世界に行っていた。
 どんな結論に到ったのかも、その結果どんな行動を採ったのかも、クロノは何も知らない。

「協力すると言ってくれた。司法取引でもないし、無理矢理でもない。彼の意思で、君を助けるんだ」
「……おとう……さん、が?」
「そうだ。君と……アリシアの、父親だ」

 フェイトの呼吸が乱れる。揺れる身体。解かれた蜂蜜色の絢爛な髪がその度に震える。
 昨日から泣いてばかりだなと思った瞬間、彼女が身を反転させて、クロノの首筋に顔を埋めた。嗚咽を彼の寝間着にぶつけて、指を痛いほどに絡めて来る。
 数パーセントでも可能性があるのなら──そう言うのは簡単だ。決断も、口にするだけなら難しくはない。ただ実行に移すのが途方も無い精神的労力を必要とする。
 気丈に振舞っていても、心を緩慢な倦怠と絶望に軋ませていたはずだ。それを恐らくは本人よりも分かっていたからこそ、クロノは彼女達の父親に直談判に向かった。
 まだ完治すると決まった訳ではない。しかし、彼女が望む形で母親になれる希望は、ずっとずっと大きくなった。月の光を照り返す指輪のように、光り輝いた。
 自分も──父親に、なれるかもしれない。
 フェイトが言った。

「名前……決めても、いい?」

 気が早いなとは言わなかった。背中を擦って、髪を撫でて、いいよと肯く。

「──アリシア」




















 四年後。




















 昼を少々過ぎた頃合。
 海を目前にしたその建築物は、改築した上に大掛かりな修繕工事をした結果、新築の風貌を備えてしまった陸士部隊の隊舎の一つ。
 一年だけという極々短期間のみ設立と運転が許可された、管理局の中でも非常に特異な部隊の拠点は、今日も騒がしい。

「ティアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」

 スバルが脇眼も振らずに共同オフィスに飛び込んで、周囲の迷惑そうな視線も省みずに相棒のティアナに駆け寄る──もとい、泣きつく。
 ティアナは室内の誰よりもうんざりとした様子で電子端末を操作していた指を止めると、腐れ縁の友達をひと睨みする。

「何よ、あんまり人の名前叫ばないで。模擬戦思い出すじゃない」
「あ、あああああああああ!」
「あ?」
「アリシアちゃんが行方不明に!」

 多数の被害を出した都市型テロ事件として歴史に残ったJS事件の折、敵戦闘機人の波状攻撃に晒された時よりも尚も濃密な危機感と絶望感が将来を執務官として有望視されている陸戦魔導師の少女を突き動かした。椅子を蹴り倒して立ち上がり、何故かバリアジャケットを構築する。

「探して! 草の根分けても探すの! 今日の当番あんたでしょ!? 何してんのよ!」
「子守唄歌ってたら私が寝ちゃって!」
「何度目よその言い訳! マッハキャリバー、捕捉してる!?」
『………』

 しかし、スバルの胸元で揺れる蒼い宝石はうんともすんとも言わない。ついでに光もしない。

「ちょっと! 何で反応しないのよ!」
「えっとね、この前飴玉だと思って飲み込まれてから、アリシアちゃんが苦手になっちゃったみたいで。三日間も洗浄作業されてさ、もー大変だった」
「知ったこっちゃないわ! フェイトさんに八つ裂きにされたくなかったら今すぐ反応追跡! 行くわよスバル!」

 スターズ分隊のフロントアタッカーとセンターガードが慌しくオフィスを飛び出してゆく。勢い余り、出入り口でライトニング分隊副隊長と正面衝突。ごめんなさいすいません強くなりたいんです死にたくないんですと顔面蒼白でうわ言のように繰り返した二人は、怪訝そうに眉を顰めるシグナムを置き去りにして、廊下を全速力で走って行った。

「ヴィータ。スバルとティアナの奴はどうしたんだ?」
「アリシアがお守り中にどっか行っちまったらしいぜ」

 自分のデスクで二人の部下を面白可笑しく見送ったスターズ分隊副隊長が、笑いながら言った。
 一方。彼女に歩み寄るシグナムの表情は深刻そうに曇って晴れない。

「一大事だぞ。フェイトが地上本部から戻って来る前に探さなければ隊舎が吹き飛ぶ」
「ヴィヴィオと一緒にいるから大丈夫だろ。ヴィヴィオの奴、アリシアにはお姉さん風吹かせるからな」
「何だ、ヴィヴィオが連れているのか。……だったら何故教えてやらない。あいつら、いつかの模擬戦みたいな顔だったぞ」
「おもしれーから」

 と、会心の笑み。時々こうして相貌通りの子供に精神が戻ってしまう時がある家族に、シグナムは嘆息をつく。

「酷い上司もいたものだ」
「うるせー働けニート侍」
「き、貴様! そこに直れぇ!」

 レヴァンティンを抜刀。おういいぜーと椅子から飛び降りたヴィータも己が鋼の相棒を抜く。何故か一触即発状態になる共同オフィスの雰囲気に、偶然現れたグリフィスとヴァイスが泡を食って止めに入る。
 二度目の隊舎破壊の危機が迫る一方で、同敷地内にある局員寮は打って変わって平穏だった。

「シャマル先生、アルフさん、オムツ買って来ましたぁ」
「あ、お疲れ様ー。ありがとう、キャロ。重かった?」
「いえ。エリオ君が持ってくれたので」

 キャロの後を追って隊長室に入って来たのは、抱えた子供用オムツで視界を奪われたエリオ。よろよろと覚束ない足取りのところを、彼とそれほど身長の変わらない省エネモードのアルフが助けてやる。

「ごめんね。こんな事フォワードのあんた達にやらせて」
「いえ。アリシアの為ですから」
「私達にとっては、妹です。だから気にしないで下さい」

 オムツの他に買って来た子供用の生理用品や雑貨品を区分しながら、キャロ。
 それを手伝いながら、シャマルが思い出したように手を打って提案する。

「そうだ、エリオ。もう少ししたらクロノ提督がいらっしゃるから、久しぶりに訓練とかしてもらったらどう?」
「そ、そんな昔みたいにはいきません! その、フェイトさんのところにお世話になっていた頃は、良く相手をしていただきましたが……!」
「遠慮する事なんて無いじゃん。お父さんって呼んでた時期だってあるんだから。シグナムに鍛えてもらった技で一本取って、キャロに良いところ見せるチャンスだぞ?」

 アルフが肘で腋を突けば、キャロがぐっと手を握って。

「頑張ってエリオ君!」
「う……うん。じゃ、お、お願いだけしてみます」

 相棒の気迫に圧されたエリオが、緊張した面持ちで肯いた頃。隊長室では、管理局の中でも外でも高い知名度を誇る女性局員と、彼女とは十年来の友人関係にある別名狸娘があれこれと密談していた。

「ヴィヴィオには、やっぱりお父さんが必要なのかな……?」
「必要に決まっとるやなか。学校でお父さんがおらんだけでいじめられる事だってあるで?」
「でも、その……お父さんを頼めそうな人って」

 なのはの不安は、そこに尽きる。正式にあの少女の母親になると決意を固めたは良いが、子供とは夫婦二人で育てるものだ。親友を見ていると、それは確定的で。確信を持ってそう言える。
 でも、そんな大切な役割を託せそうな人が、周りにはいない。誰でも良いという訳では勿論無くて。ヴィヴィオの為でもあるが、同時になのは自身のこれから先の人生に大きく関わる大切な事柄でもある。
 天井を見上げて思案するなのはに、はやてが声を荒げた。

「なのはちゃんは樹の股からでも生まれたんか!? 何年ユーノ君と幼馴染しとるんや!」
「ゆ、ゆーのくんは、だ、だって!」

 顔を伏せてしまうエースオブエース。栗色の髪の隙間からは、赤く茹で上がった耳の先が垣間見えた。
 はやては肩を竦めると、ソファに背を預けて寛ぐ。

「そんな調子やと、その内誰かに盗られるでー」
「盗られる?」
「……これは一度本当の危機感を持たせないとあかんな……」

 ここでつく溜息は、友人の女性としてのこれからを憂うもので。同時に喜んで仕事に忙殺されている身でもある自分自身の事でもある。
 そんな喧々囂々な隊舎の裏側。海上に面したそこにある森林は、最先端の陸戦シミュレータが作り出した仮想現実だが、土の香りも含めて、限りなく本物に近い現実がどこまでも広がっていた。
 そこに、訓練場として使われている開けた場所がある。周囲を樹木で囲まれた広場。風が吹けば、宿った翠の葉が揺れてざわめく。
 二人の少女が、木陰で身を休めている。樹木の根を枕にして、小さな身体を重ね合って、安らかな寝息を立てている。
 芝生を踏み締める微かな物音。一人が、仔犬の鳴き声のような呻きを洩らして、眼を醒ます。姉と慕う少女は、気持ち良さそうに眠っている。
 眼を擦って周囲を見渡して。歩み寄って来る自分と同じ色の髪を靡かせた女性を見つけると、まだはっきりとしていなかった意識と視界が、一気に明瞭となった。
 高町ヴィヴィオを起こさないように気を付けながら、アリシア・テスタロッサ・ハラオウンは声を上げた。

「お母さん」

 二十歳前の若い母親が、手を伸ばす。抱き上げられると、母親の背後に黒髪の青年が立っている事に気付く。

「お父さん」

 彼は母親の胸に抱かれたアリシアの額にゆっくりと掌を這わせると、側で寝る高町ヴィヴィオを慣れた様子で抱える。

「お外に出る時は、お姉ちゃん達に言わないと駄目だって言ったでしょ、アリシア」
「はーい」

 ヴィヴィオに連れられて冒険に繰り出した、とは言わない。彼女は今も幸せな夢を満喫中の身なのだ。
 それは、別にいいの。父親の懐をベッドにしているのは、ちょっと妬ける。母親の柔らかさと違って大きく力強い父親の胸の中が、アリシアは大好きだった。

「お父さん。抱っこ」

 そう言うと、母親はショックを受けた様子で項垂れる。

「フェイト。君はいつも抱っこしてるだろう。たまにしか会えない父親の特権だ」
「……アリシアはお父さんの抱っこの方がいい?」

 心配そうな母親と、余裕たっぷりな父親の顔を交互に見渡したアリシアは、少しだけ迷った。迷って、こう言った。

「どっちも好き」

 若い両親は互いの顔を見合わせると、敵わないと苦笑を浮かべ、踵を返して隊舎へ戻る。
 風が、吹く。優しい風が、アリシアの頬を撫でる。大好きな母親と同じ色の髪を梳き、流れてゆく。
 アリシアはふっと蒼い空を見上げる。大きな二つの月と、点在する小さな雲の群れ。
 暖かな陽気が、穏やかな午後を象徴するような空模様を包む。
 再び眠気が来る。母親の体温が、何者にも勝るゆりかごだ。抗う事は出来ずに意識が徐々に無くなる。
 ぎゅっと、服の袖を握る。
 すると、母は何も言わずにすぐに手を握ってくれた。
 それがどうしようもなく嬉しくて。
 アリシアは笑顔で、眠る事を選んだ。





 fin





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