魔法少女リリカルなのは SS

風に舞う花

♯.2







 クロノの部屋は生活感に乏しい。必要最低限の家具――ベッドや机以外にはほとんど何も無い。趣味の類の物は数えるくらいしかない。何せ幼少の頃から仕事や訓練を趣味にしているようなものだったのだ。提督職に就いて以降、趣味があろうと、それに費やす時間も無かっただろう。
 そんな殺風景な自室で、彼はベッドに腰掛け、文庫本を開いていた。

「こんばんわ」

 照れと緊張から、フェイトはぎこちなくはにかむ。
 クロノと言うと、驚いたように眼を瞬かせている。
 その眼差しの意味が、フェイトにはよく分かった。

「久しぶりだね、兄さんを名前で呼んだの」
「……どうしたんだ、いきなり」
「ちょっと、ね」

 まだ微かに水気を残している髪を靡かせて、フェイトはベッドに乗り、クロノの横に座った。

「本、読んでたの?」
「ああ。はやてから借りた恋愛小説だ」
「……クロノ、恋愛小説とか読むの?」
「いや、あまり興味も無かったんだが、はやてに強く薦められてね」

 文庫本にしおりを挟み、クロノが表紙を見せて来る。
 フェイトも知っている物だった。少し前に映画化もされた有名少女コミックの小説版だ。
 義理の兄妹の禁欲的な恋愛を描いた内容で、映画の方はR指定が付いたくらい過激だったらしい。

「面白い?」
「それなりには。映画化もしてるらしいし、暇があればそっちも見てみたいかな」

 流行っていた当時は、義理の兄妹の恋愛という事で、はやてやアリサにクロノとの事で何やらからかわれた事があった。
 その時は何とも思わなかった。そんなの無いよ、兄さんにはエイミィが居るからと一蹴していた。
 今言われるとどうなるのか、ちょっと分からない。真赤になって返答には困るだろう。そして泣いてしまうかもしれない。

「風呂は?」
「いただきました」
「お湯は抜いたのか?」
「あ……」
「後ででいいから、ちゃんと抜いておいてくれ。アルフがうるさいから」

 最近のアルフは、家事手伝いがすっかり板に付いてしまった。ちゃんと綺麗に使わないと小言を垂れて来る。

 フェイトはは〜いと返事をして、改めてクロノの横顔を見上げる。
 出会った頃にはそんなに差が無かったのに、いつからか、見上げなければいけないくらいの身長差が出来ていた。
 無骨さは無いが、さりとて線が細い訳でもない身体。
 端正な顔付きには、落ち着きと柔和さがある。

「………」

 こうして肩が触れ合うくらいの距離で見るのは初めてだった。
 肩は思っていたよりずっとしっかりとしていて。
 あどけなさが抜けた表情には、自分には無い大人の面影が見えて。
 そんな彼が、こちらを向く。不思議そうに眉を顰めて、優しい声をかけて来る。

「どうしたんだ、フェイト」
「え……」

 その声に、自分が彼の横顔に見入ってしまっていた事に気付いた。
 慌てて顔を背ける。浴槽の中でそうしていたように、膝を抱え、顔をそこに埋めてしまう。

「な、なんでも……ない……」
「……学校で何かあったのか?」
「別に何も……」
「そうか? 帰って来てから、少し様子がおかしいぞ」
「そんな事ない」
「ならどうして僕の部屋に? 用があったんじゃなかったのか?」
「だから……ちょっと……」

 ちらちらと横目でクロノの顔を覗き見る。

「用も無いのに来たのか?」
「……用が無かったら来ちゃいけないの?」
「そういう訳じゃないけど、珍しいからさ。ちょっと驚いてる」

 確かにこういう状況は珍しい。いや、そもそもクロノが自室に居る事の方が、最近では珍しい方だった。
 このマンションに帰って来ても、彼は大抵エイミィの部屋に居る。
 そういう時、フェイトはなのはやはやての自宅にお邪魔したり、アースラの自分の部屋に行って、クロノ達に気を使っていた。
 クロノは二十歳で、エイミィは二十二歳。”そういう行為”に及んでいても何ら不思議はない。むしろ、恋人同士だったのだから自然だ。

「どれくらいぶりかな」

 文庫本を枕の脇に置いたクロノは、天井を仰ぐ。

「君が僕を名前で呼んだの」
「えっと……分かんないや」

 仕事中は当然家族ではなく、上司と部下として接している為、”クロノ提督”と呼ぶ事もある。
 だが、こうして家族として接している時に名前で呼んだのは、本当に久しぶりだった。

「何だか懐かしいな。闇の書事件が終わって、一年くらいはずっと名前だったような記憶がある」
「そう……だったかな。そういえば、”お兄ちゃん”って呼ぶとクロノが照れるから、”兄さん”にしたんだっけ」
「キッチンじゃ不意を突かれたよ」
「不意打ちは有効な戦術だって、昔、クロノに教わったよ?」
「そうだったな」
「うん、そうでした」

 会話はそこで途切れる。
 クロノは天井を見上げたままで。
 フェイトは膝小僧の先を見詰めたままで。
 気まずくはなく、どちらかと言えば、柔らかくて居心地の良い沈黙の後、

「僕で良ければ相談に乗るぞ?」

 クロノは大きな手をフェイトの頭に置いて、子をあやすように言った。

「………」

 その笑顔が嬉しくて。

「やっぱり何かあったんだろ。君らしくないぞ」

 その笑顔が辛くて。

「管理局か? でも今日は休みだったはずだしな……。やっぱり学校か? 分からない授業でもあったのか?」

 彼の美徳であるはずのその優しさが。

「友達と何かあったのか?」

 今は、ただ、苦しい――。

「クロノ」
「ん?」
「あのね」
「ああ」
「私ね」

 気付くには遅すぎた初恋。
 そして失恋に終わってしまった初恋。
 今日、それこそ本当についさっき気付いた自分の気持ちにけじめを付けよう。
 次に言う言葉を探りながら、フェイトはこの部屋に来ようとした理由を悟った。

 ――結婚おめでとうと、心からクロノに言えるようになる為だ。

 気付いたばかりのこの気持ちを伝えて、きっぱりと彼に断れない限り、フェイトは大好きな兄と姉の結婚を祝福してあげる事が出来ない。
 想いを伝えるべき言葉は、本当にシンプルなものになった。

「クロノの事が好きでした」
「……え……」
「さっきエイミィと結婚するって聞いた時、私、おめでとうって言えなかった。自分でも何でか分からなくて」
「………」
「お風呂に入ってた時に気付いたんだ。私は――」

 深呼吸をして、フェイトはクロノの手を取り、胸に抱く。

「フェイト・テスタロッサは、クロノ・ハラオウンが好きだったって」

 義理の兄妹という関係ではなく、フェイトは一人の女性として、クロノを一人の男性と見て、そう告げた。
 クロノは静かに苦慮していた。ただ、十五歳の少女の胸に抱かれてしまっている自分の手に頬を赤めて、視線を逸らす。

「気持ちは……嬉しい」
「……うん」
「でも、僕はエイミィが好きだから。だから、君の気持ちには応えられない」

 分かり切った答えだった。
 想いを伝える前からこうなるのは分かっていた。
 なのに、悲しい。
 こんなにも――悲しい。

「ごめん、フェイト」
「うん」
「本当にごめん」
「……うん」

 頷く事しか出来なかったのは、泣くのを堪える為だった。
 でも、やっぱり無理だった。
 抱いたクロノの腕をぎゅっと握り締める。決して離さないように。
 感情が決壊する。崩壊したダムから水が溢れるように、気持ちが氾濫する。

「フラれ……ちゃっ、た……な」
「………」
「分かって、たんだよ……? クロノに、は……エイ……ミ、ィが……お似合……いだって……」
「………」
「フラるの、は分かって……て……。でも言わ、ない……と、おめでとう、って……言えなかっ……たか、ら……」
「……フェイト……」

 顔を上げる。頑張って、頑張って、何とか涙を止めようとする。
 でも止まらなかった。
 涙でくしゃくしゃになった顔で、フェイトは言った。

「結婚おめでとう、クロノ」

 そうして、フェイトはクロノの胸で号泣した。



 ☆



 どれくらい泣いていたか、フェイトには分からなかった。
 涙を流し続けた瞳は染み込むような痛みを、泣き声を上げ続けていた喉は裂かれたような痛みを、それぞれ訴えて来る。
 それら痛みを、ぼんやりと自覚して来た頃、フェイトはようやく泣き止む事が出来た。
 クロノはずっと抱いてくれた。赤ん坊か、宝物か、そうした大切なモノを抱くようにして。
 時折撫でてくれる彼の指先がとても愛しい。

「……ありがとう……」

 呼吸をすれば、鼻水がぐじゅぐじゅと情けない音を上げる。

「……いや」
「……ごめんね、子供みたいに泣いて」
「……気にしないでくれ。君はまだ子供だろう」

 そう言って、クロノは少しおどけて見せた。
 見上げれば彼の優しい笑顔があった。
 胸が高鳴った。
 どきりという大きな音が確かに耳に入って来る。
 動悸が僅かに速くなる。

「……じゃあ、甘えていい?」

 身体が熱かった。内側から来るような熱が、思考と理性に絡み付き、機能を蝕んで行く。

「何でそうなる……」

 呆れながらも、自分を抱く腕を外さない彼の優しさが愛しい。

「子供は甘えるのが仕事って、母さんが言ってたから」
「母さんに甘えればいいだろう?」
「今日は戻ってこないって連絡あったから。無理」
「……だから僕という訳か」
「うん。泣かされちゃったしね」
「……すまない」
「嘘。冗談」
「………」

 彼の寝間着に指を絡める。
 肩を、身体を寄せ、その胸に頬を添える。

「……クロノ、どきどきしてる?」
「……正直、少しだけな」

 胸に押し付けた耳には、自分の胸と同じように、早鐘を打つクロノの心臓の音が届いていた。
 その事実が、単純に嬉しかった。
 その事実が、思考と理性の麻痺を進行させて行った。

「だめだよ、クロノ。エイミィが居るのに、私なんかでどきどきしてちゃ」

 自分の呼吸が徐々に荒くなって行くのが分かった。

「……仕方ないだろう、僕だって男だ」
「妹に欲情しちゃうの?」

 冗談で言っているのか、本気で言っているのか、良く分からなくなって来る。

「そういう事を言うんじゃない」
「……私は……今、凄くどきどきしてる」

 蛇口を捻られた水道のように、思っている事が面白いくらい良く出て来る。
 クロノが動揺しているのが分かった。彼の心臓が飛び跳ねたような大きな音を上げたのだ。
 自分の言葉に過剰反応をしている。愚直で誠実なクロノらしい。
 そんな彼のすべてが――狂おしい程に愛しい。
 クロノが僅かに身体を離そうとする。
 フェイトは離すまいと指に力を込め、身体を摺り寄せる。
 結果、二人はバランスを崩してベッドを揺らした。

「……あ……」

 ベッドの軋みが生々しく耳朶を打つ。

「―――」
「―――」

 視界がクロノの顔で埋められた。

「―――」
「―――」

 フェイトはクロノを押し倒すように彼の身体に乗っていた。
 クロノはフェイトに押し倒されるように彼女を身体に乗せていた。

「……フェイト、その、退いてくれると助かる……」

 耳まで紅潮させて、クロノは視線を横に逸らした。
 その仕草が胸と心を激しく掻き乱した。
 あれだけはっきりと想いと断られたのに。
 結婚おめでとうと言えたのに。
 諦めなきゃいけなのに。
 感情は、気持ちは、心は、まだクロノが好きだと声高に叫んでいる。

「……ごめん……なさい……」

 そう言いながら、しかし、フェイトは離れようとしなかった。
 火照る身体。
 荒くなる一方の動悸。
 溶けた理性が本能をさらけ出す。

「フェイト?」
「いけないって分かってるのに、止まらない」

 彼にはエイミィが居る。すでに決定した生涯の伴侶が居る。
 いけない。
 こんな事を思ってはいけない。
 喩え想像の中でもしてはいけない。
 溶けたはずの理性が最後の抵抗をする。
 でも――。

「止められない」

 ブレーキを失った車は燃料が切れるまで走行するしかない。

「くろの」

 情欲に溺れた心が告げた。
 甘い甘い声だった。

「甘えても……いい?」
「……フェイト、駄目だ」

 クロノが厳しさと僅かな険を顔に浮かべる。
 フェイトが何を思い、何をしようとして、何を求めているのか、彼は理解してしまったのだ。

「……知ってる」
「なら」
「クロノは、私が嫌い?」
「嫌いなもんか」
「私もそうだよ。クロノが好き」

 喩え拒絶されたとしても、この気持ちに変わりはない。

「フェイト、僕は……」
「……分かってる」
「………」
「だから、これは私の我侭」

 相手がすでに決定しているヒトに、”そういう行為”を求めるのは背徳的な行為だ。
 クロノも、それは望んではいない。
 だから、これはフェイトの我侭なのだ。
 喩え刹那的であっても良い。
 一晩限りで良い。
 初恋のヒトを独り占めしたい。
 心も身体も、自分のモノにしたい。
 自分の心と身体を、彼の色に染めてもらいたい。
 何より――この気持ちにけじめをつけたい。明日から彼を”大好きな優しい兄”と見る為に。

「……やめろフェイト」
「どうして?」
「……言わないと分からないのか?」
「分かるよ? 本当に好きな人の為にとっておけって言いたいんでしょ?」
「……そうだ。後悔するから、絶対に」

 諭すようにクロノが言う。
 フェイトは即答した。

「しないよ」

 躊躇は無かった。

「しない。後悔なんて、絶対にしない」
「………」
「だから、抱いて下さい」
「……駄目だ。絶対に駄目だ。落ち着け、フェイト」

 本当に、どこまでもどこまでも、クロノは優しかった。
 エイミィとの事もあるだろう。でも、それ以上に今の彼はフェイトのこれからを心配している。
 一時的な感情に流されて、大切なモノを失おうとしているフェイトを諭そうとしている。
 それは分かった。理解出来た。
 でも納得が行かない。未熟な感情が納得してくれなかった。
 どうして分かってくれないのか。こんなにも求めているのに。一回だけ、今日だけでいいのに――!
 感情が爆発した。身体の火照りが頭に殺到する。何がどうなったのか、まるで分からなくなった。
 そして、気付いた時には、自分の唇と彼の唇が重なっていた。
 一拍遅れて、クロノが暴れ始める。フェイトの肩を押して引き剥がそうとする。
 フェイトはクロノの頭を抱えるように、その首に両腕を回した。脚を絡めて動けなくする。満足な呼吸が出来なくなったが、構わずに唇を押し付ける。
 情熱的でも官能的でもない。稚拙や幼稚、そんな言葉も似合わない。ただの暴力的で乱暴なキスだった。
 一分以上は無言の押し問答をしていた。さすがに息苦しさが限界を迎えて、フェイトは海面から顔を出した時のようにクロノの唇を解放する。

「フェイトッ!」
「……くろのは、わたしとじゃいや?」
「そういう問題じゃないだろう! 僕は君の気持ちには応えられない! それが……!」
「分かってる。だから、この一回だけでいいの」
「フェイト……」
「結婚おめでとうって言えた。でも……私はまだクロノが好きなままなんだ。だから、諦める為に抱いて欲しい」
「そんな理由で出来るもんか……!」
「クロノにとってはそんな理由かもしれないけど、私にとっては大切な理由」

 本当にどうしようもない我侭で身勝手な理由だった。
 自覚はあった。彼に迷惑をかけているのも分かっている。エイミィに対して大きな裏切りを働いているような気持ちもある。事実、これは彼女の信頼を最悪な形で裏切っている。
 長い長い沈黙。
 その間、二人はじっとお互いの眼を見詰め合って過ごした。
 フェイトは祈るように彼の答えを待つ。
 大きな期待と不安は、次の瞬間に粉々に吹き飛んだ。

「……駄目だ」





 to be continued.





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 □ あとがき □
 読んでいただきましてありがとうございました。
 某所で投下した文書そのままですが、ラストの二文だけ違います。ここからが全年齢版。あれですよ、ギャルゲーで言う所の二つの選択肢方式です。
 クロフェ派から刺されても文句が言えない状況。そしてラストもその予定。だが私は謝らない!





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