魔法少女リリカルなのは SS

風に舞う花

♯.3







(駄目だ)

 たったの一言。文字数は三つ。取るに足らない、何の力も持たない言葉。
 それなのに、それはフェイトの思考に複雑に絡み合い、思案を許さない。
 学校に行っても指先はペン回しに勤しみ、眼は黒板ではなくてどこか別の方向を見つめ、耳は教壇上の教師の言葉を聞き流している。
 欠席や早退の数が多いものの、校内では容姿端麗な優等生で通るフェイトがそんな様子なのだから目立たないはずもない。何かあったのかと訊ねて来たのは、なのは達 だけではなかったし、良くしてもらっている教師からも悩み事か、と訊かれた。
 日本人離れした容姿で何かと目立つフェイトに、無責任な噂が流れるまで時間はかからなかった。
 付き合っていた彼氏と別れた、何てのは可愛い方で、酷い内容になると売春などという言葉が混ざっている始末だった。そうなると親友の一人で、気が強い上に 手も早いアリサ・バニングスが黙っていない。普段は人畜無害な笑顔で友人達と接する高町なのはも同様である。
 根も葉もない噂はすぐに形を潜めた。生徒には相応の努力を、家族には相応の金額を求める聖祥大附属中学校である。通っている生徒達に特別素行の悪い者はいなかっ たし、声を潜めて噂を満喫していた者達も単なる好奇心を刺激されて、持て余し気味の暇を有意義に潰す為の一つの手段にしていただけだ。
 それでもあまり宜しくない噂の根絶には時間がかかるようで、アリサやなのはの鼻息が静まるにはもう少し時間がかかると思われた。
 そんな騒ぎを、渦中の人物であったフェイトはまったく関知していない。
 いつもの昼休み。フェイトは母が作ってくれた弁当も広げず、一時間目にあった数学の教科書や問題集を机上に置いたまま頬杖をついていた。
 窓際の席だ。ぼんやりするには適した場所で、顔を横にやれば青い空が望める。

「……駄目だ、か」

 舌の上を転がるのは、あの日、不器用な義兄がくれた望まぬ返事。
 懇願だった。
 他には何も要らなかった。
 そうしてくれれば諦められた。
 今後、仲の良い義理の兄妹として過ごせるはずだった。
 それを、クロノは許してくれなかった。
 あれから一週間以上が経ち、頭もすっかり冷えた今なら分かる。どれだけ自分が倫理やら何やらを無視していたのかを理解できる。
 クロノに愛する女性を裏切る事を強要した。
 妹のように可愛がってくれたエイミィを、自分は裏切ろうとした。
 あの時は今が良ければそれで満足だった。だからあれだけ短絡的な行動に出たし、クロノにそう切り出せた。
 それについて、フェイトは後悔している。あの時、クロノがはっきりと拒絶してくれて良かったと胸を撫で下ろす事もできる。
 でも、哀しみもあった。
 頬杖を解き、机に突っ伏す。出しっ放しになっていた筆記用具がばらばらと音を立てて床に散らばるが知った事ではない。
 白紙のノートを薄い枕にして、フェイトは騒々しい教室内を意味も無く見詰める。
 中学に上がってから男女共学ではなくなった。校内は女子高らしい華々しさもあったが、物静かなフェイトはそんな雰囲気と時々距離を持ちたくなる。
 親しい友達を弁当を広げてお喋りをしながら舌鼓を打つ。そんなどこにでもある光景が歪んで行く。
 いや、曇っている。霞んでいる。ぼけている。ピンボケした写真のようになって行く。
 それが涙のせいだと気付いたのはすぐだ。
 涙はすぐに溢れて、枕にしているノートにシミを作って行く。
 相変わらず頭の中は明確にならない。自分が一体何を考えているのかも分からない。遠くの席の生徒達が自分を見て表情を変えた。また良からぬ噂を企てているの だろうか。
 そんな事はどうでも良い。今はこのまま学校にいて、この机に突っ伏し、耳を塞いでいたかった。
 クロノとはもう一週間会っていない。
 あの拒絶の言葉以降、何のやりとりも、していない――……。



 ☆



 何も考えずに天井ばかり見上げている。執務官時代と比較すれば随分と柔和な物腰になった若い艦長の態度は、この一週間あまりで改善される様子がまるで見えない。

「何か初恋が失恋で終わった中学生みたいな顔してるなぁ」
「……中学生って何ですか?」
「ああ、フェイトちゃんの世界の……あ〜、第九十六管理外世界の言葉だね。こっちで言うところの普通校の事」

 配属となって日も浅いルキノ・リリエとのお喋りも、いつものクロノなら小言の一言が飛んで来て中断させられるのだが、ここ数日はやりたい放題である。
 艦長が上の空では艦船の士気に関わる問題だったが、不幸中の幸いとも言うべきか、航行システムに異常が発見された為、アースラは本局のドッグに長期に渡る修復 作業を受けている。
 老朽化という言葉がひっそりと近づいて来ている古い艦だ。もう三、四年も経てば悪くて廃艦処分、良くて本局防衛用艦船の頭数を揃える為のハリボ テという結末に至る可能性がある。
 歴戦の老艦の最後がそれでは、もう十年近くこの艦の艦橋の座席に座り続けているエイミィ・リミエッタとしては非常に寂しいのだが、感傷だけで存続させられるほ ど、L級航行艦船の維持費は安くは無い。船体のあちこちにもガタが来ているので、最後まで最前線の任務を全うさせてやる為にも、今は徹底的なメンテナンス作業を 施すべきなのだ。
 それなのに、肝心の艦長がこれである。

「やっぱり何かあったんでしょうか」
「そうなんだろうけどね。何にも話してくれないんだ」

 ルキノにそう返す声には、どこか寂しげな感情があった。
 そう、クロノは何も話してくれなかった。珍しく海鳴の自宅に帰り、その翌日に戻って来てからずっとこの調子である。
 相棒という関係が男女の仲に変化して数年。結婚の日付だって決めようといつもの軽い口調で切り出したのもちょっと前。姓がハラオウンになるのも間近。
 寂しいと思う一方で悔しいとも思った。これからずっと一緒の道を歩いて行くというのに、彼がこうなってしまった原因が思い当たらない自分に苛立ったりもした。
 左手の薬指で光る指輪が鈍い色を放つ。

「そういえば、最近フェイトさんも見ませんね」
「ああ、フェイトちゃんなら今有給消化中だから、当分は来ないよ」

 仕事では艦長とその右腕たる執務官。プライベートでは仲の良い義兄妹として次元航行部隊内でも有名な二人。その兄が心ここにあらずになった時と重なるように、 妹が急な有給申請を出した。正確には、彼女の母が代理で提出したのだ。
 身体の調子でも悪いのか。そう思ってリンディに訊ねたのだが、はっきりと納得のできる答えはもらえなかった。
 困ったように眉を寄せてしまう将来の義母を言及する事が憚られた。そう言ってしまえばそれまでだが、何となく踏み込めなかった。

「有給、ですか」

 不思議そうに、ルキノ。彼女の持ち場であるコンソール前にはティーセットが置かれ、嗅覚を楽しませる香りを漂わせている。
 拠点のアースラは目下補修作業中だが、こなさなければならない業務はしっかりと残されている。急ぎの事件も無かったが、次の事件が起こるまでに片付けてしまう 事が望ましい。フェイトは義兄と似て馬鹿が付くほど真面目で、六年来の好敵手曰く、歩く責任感の塊のような少女だ。そんな彼女がこんな時に有給消化とは、その 人となりを知る者なら訝しむだろう。
 まだ付き合いの短いルキノですら怪訝そうにするのだから、長年の姉領分なエイミィはクロノの事もあって内心複雑だった。
 何かあったと勘ぐるのが普通である。

「まぁ有給の問題はフェイトちゃんやクロノ君みたいな忙しい局員には結構あるからね。事件捜査も急がなきゃいけないけど、捜査するこっちもどっかで息抜きしてお かないと参っちゃうから。ルキノはどうなの、有給」
「わ、私は最近配属されたばかりですし、そんな有給なんて」
「とか言ってるとね、気付いたらやたら貯まってたりするんだよー。有給の貯蓄なんてしても意味無いから、どっかでちゃんと使わないと駄目だからね」

 とは言うものの、エイミィも有給はそれなりに貯め込んでしまっている。クロノ達と比べればずっと使っている方だが、何せ過去の実績も華々しいアースラは多忙だ。 加えて通信司令なんて役職に昇進したものだから、給料が上がった代わりに抱える仕事量も天引き状態で増えている。
 もっとも、その有給貯蓄も今は少しずつ減って来ている。あのワーカーホリックなクロノと合わせて、だ。
 今日も午後から早上がりとなり、クロノと二人でリミエッタの実家に顔を出す予定となっている。エイミィの父も管理局局員だが、大変にクロノを気に入っていて、 事ある毎に連れて来いとやかましいのだ。
 物心がつくか否かの頃に父親を失っているクロノにとって、エイミィの父親はまさに未知の存在だった。今では酒も付き合えるようになったが、初対面の頃は大変だった。
 そんな苦労も記憶も今では懐かしい。そんな昔でもないのに。

「……そういえば、艦長は会っててもフェイトちゃんは会ってないんだよね、うちの家族に」

 未だにリンディを名前で呼ぶのには慣れていない。ずっと艦長で通して来たのだから、急に呼び方を変えろというのが難しい。
 クロノ以上に、フェイトにとって父親とは想像の難しい存在だろう。彼女には父親というそれがそもそも存在していないのだから。
 ふと思いつく。

「そうだ、どうせならフェイトちゃんも連れてこっか」

 学校で気兼ねなく学生生活を謳歌している最中の彼女を呼び出すのは些か気が引けたが、こんな時ぐらいでないと二人を纏めて連れて行くのは至難である。

「フェイトさんを連れて行く?」
「ん〜、実はね、今日早上がりさせてもらってクロノ君と実家に帰るつもりだったんだ。それで一緒にフェイトちゃんもどうかなって思って」
「あ、なるほど。ご結婚ですものね」

 さすがに結婚という言葉にはまだ照れを覚えてしまう。
 エイミィが誤魔化すように幼い部下の額を小突くと、フェイトに送るメールの準備を始めた。
 なのだが、コンソールを走る指はすぐに止まってしまう。

「………」

 様子がおかしいクロノ。
 示し合わせたように有給を取ったフェイト。
 その手続きを代理で行ったリンディ。
 何も語らない彼女達。
 不意に嫌な感覚が胸の奥に落ちて来る。それは疎外感にも似ていて、ざらついていて、思案に深く絡まって来る。雁字搦めの網のような気持ち。
 リミエッタからハラオウンに姓を変えるのは間近だ。だからこそ、自分だけ何も知らないのは――……。

「嫌だな」

 単純な探究心では無く、不謹慎な好奇心でもない。
 これから家族になるというのに、除け者にされるのは嫌だった。理由なんて本当にそれだけだった。
 手も止めて呟いた上司にルキノが不思議そうに首を傾げる。エイミィはそんな彼女に『後は宜しくね』とだけ伝えると、席を立って艦橋を後にした。
 扉を潜る前に覗き見たクロノ・ハラオウンは、やはり気の無い様子だった。
 思えば、こんなクロノを父に会わせる訳にはいかない。

「会いに行くついでに美由希ちゃんの所にも顔出してこようかな」

 遠い管理外世界の友達を思い出しながら、エイミィはそそくさと自室に向かった。道中実家に連絡をして、今日は帰れなくなったと適当な嘘も交えて報告もした。



 ☆



 友人達の心配りが有難かった。

「じゃ、まっすぐ帰んなさいよ」
「何かあったら連絡してね」
「今日は夜遅くまで起きてるから。電話でも大丈夫だよ?」
「私もや。なるべく早く局の仕事も切り上げるから」

 口々に言い残して、友達はそれぞれの場所へと散って行く。
 小学校の頃からフェイト達は管理局の仕事で、アリサ達は習い事で一緒に遊べる機会は多くなかったし、それは中学に上がってからもそうで、学校以外で同じ時間を 過ごせる時は本当に少なくなってしまっていた。
 なのは達に事情は一切話していない。話せるはずもない。人の信頼を知らぬところで裏切ろうとして、ひと時だったとしても、それについて何の罪悪感も背徳感も 抱かなかった。
 単純に利己のみを求めた。自己満足の為に、悲しさと寂しさと切なさで穿たれた胸の穴を埋める為に、初恋を失恋として終わらせる為に、クロノを求めた。
 そんな邪欲まみれの自分の現状を、一番の友達に打ち明ける事なんてできるはずもなかった。話す気も無かった。
 貝のように口を閉ざして、一緒に遊ぼうという彼女達の提案を無碍にして、教室では心配してくれと言わんばかりの態度を取った。
 それでも暖かい言葉を与えてくれる友人には、どれだけ感謝してもし足りない。

「このままじゃ駄目だよね」

 茜色に染まった街道を歩きながら、静かに独りごちる。
 言葉にしなくても、それは重々承知している。
 皆が受け止めてくれている現状に甘えてはいけないと頭では分かっていても、気持ちが理解してくれない。
 学校だけではない。管理局もだ。クロノに拒絶されたその翌日、偶然にだがリンディが帰宅していなければ、フェイトは派手な失敗をやらかしていたに違いない。
 その日は早朝からアースラの補修作業の進捗や今後の方針等を、クロノやエイミィと協議しなければならなかった。
 憂鬱だとか気が重いとか、そんな次元ではなかった。一睡もできずに朝を迎えたフェイトの顔色は真っ青で酷いものだった。
 気が付けばクロノは家を出ていた。キッチンのテーブルの上には置手紙があって、『先に行っている、調子が悪ければ今日は休んでも構わない』という簡素な言葉が 添えられていた。
 そこでようやく理解したのだ。愚直なまでにまっすぐな兄と、彼が愛した女性を、自分の気持ちに踏ん切りをつける為だけに最悪な形で裏切ろうとした事実に。
 肩が震えてしまうほどの猛烈な恐怖に襲われた。頭は真っ白になって、豪雨の如き激しい後悔に胸が押し潰されそうになった。
 リビングで立ち尽くしていた所を帰宅したリンディに声をかけられて、後はどうなったのか良く覚えていない。
 記憶にあるのは、自分を抱き締めてくれていた母親の温もりだけだった。
 クロノとの事を話した覚えはないが、リンディは大体を把握していたようで、すぐにフェイトの有給手続きを済ませて、その連絡をアースラに入れている。
 それからというもの、リンディはずっと家にいる。クロノはアースラに詰めている。エイミィもそうだ。アルフも無限書庫で悲鳴を上げているユーノを助ける為に あちらに出たまま。
 自分のあの行動が、仲の良かったハラオウンの名前に亀裂を入れてしまったのか。そんな風に思い始めていた。
 何も考えずに立ち止まり、伏せ気味だった顔を上げて、視線を横に移す。聖祥中学の制服に身を包んだ金髪の少女の顔は悄然としていて、とても十五歳には思えなかった。 生活に疲れた三十代前半にすら見えてしまう。
 そんなフェイトの視線の先には、ブライダルハウスがあった。大きなショールームに納まっているのは純白のドレスで、ライトアップされたそれは、今まで見て来た どんなものよりも綺麗に思えた。
 派手さを抑えたワンピースタイプのウェディングドレス。その横にはドレスと同様に真っ白のメンズスーツがある。

「……無理だよ……」

 一度は結婚おめでとうと言えた。そんな気持ちも、今では完全に揺らいでしまっている。
 クロノの事が好きなままなのだ。
 あんな行動に走って、裏切ろうとして、クロノに拒絶されてしまって、もう駄目だと諦めろと理性が叫んでいるというのに。
 無理だ。無理なのだ。クロノが好きだという感情を抑える事ができない。こみ上げて、溢れて、止められない。
 どんなに想っても、伝えても、決して届かないのに。そんな事も分かっているのに。
 何て未練がましい。最悪で最低だ。だからもう一度口にする。

「無理だよ」
「何が無理なのかな?」

 その惚けた声が誰の物なのかなんて、考えるのも馬鹿らしい。
 飛び退くように背後に向き直れば、私服姿のエイミィがやっほーと手を振って佇んでいた。

「隙だらけだったぞー、フェイトちゃん」
「ぇ……ぅ……」

 言葉が出て来ない。何て答えればいいのか以前の問題だった。
 クロノ以上に今は会いたくはないヒト。
 彼が選んだ、ヒト――。
 足が勝手に後ずさりをしようとする。逃げ出せと感情がざわめき立つ。
 それを必死に押さえつける。憔悴した顔はきっと泣きそうになっているに違いない。
 それでもここから飛び出す訳にはいかなかった。このままではいけないと、フェイト自身が痛感していた事だから。
 エイミィはそんなフェイトを前にしても特に表情を変えなかった。

「ちょっと歩かない?」
「え……」
「そうだ、臨海公園行こ。今なら夕日も見れそうだから」

 可決してしまったエイミィは、戸惑うフェイトの手を握り、少々強引に彼女を連れ出した。
 海鳴臨海公園にはすぐに着いたが、エイミィが求める場所は海に面した場所らしく、園内を突っ切ってそこに向かった。
 遊び回る子供の喧騒。ボールが蹴られる音。設えられた噴水の水音。沢山の雑音が聞こえるのに、フェイトとエイミィの間には会話が無かった。
 唯一の会話は、海が見える歩道に着いた時、近場の自販機で何を飲むのかと訊かれたぐらいだった。
 手はとうに離していて、それぞれ缶コーヒーを持っている。有名銘柄の無糖のコーヒー。

「ブラック、飲めるんだ」
「ちょっとだけだけど」
「ちょっとで缶一本は辛いと思うけど」
「お砂糖の採り過ぎは駄目なんだよ?」
「それは艦長……じゃなかった。リンディさんに言わないと駄目だね」
「……そう、だね」

 それっきり、言葉は出て来ない。
 規則正しい波の音と、赤い空を飛んで行く鳥の鳴き声が辺りを満たす。

「クロノ君と何かあった?」

 その一言はどんな苛烈な攻撃魔法よりも遥かに深くフェイトの心中を抉る。
 手すりに背を向けて寄りかかる。そうするのが精一杯で、後は質問から逃げるようにうつむくだけだ。
 エイミィは側にいる。海に飲み込まれて行く夕陽を眺望しながら缶コーヒーのブルトップを開く。

「……エイミィは……クロノのどこが好き?」

 兄とは言わなかった。
 エイミィを見ようとはしなかった。そんな勇気は無かった。気遣いもできていて、勘の鋭い彼女なら、この言葉だけでも様々な事実を察するだろう。
 フェイトは半ば脅えていた。何に脅えているのかさえ分からなかった。尋問に晒されているような感覚もあった。
 肩が震える。それを止められず、ただ細い身体を強張らせる。そんなフェイトを、エイミィも見ようとはしなかった。

「クロノ君ってさ、放っておけないでしょ?」

 呟くようにエイミィが言った。
 次の言葉を待った。待ちに待った。でも、いつまで待っても続く言葉は無かった。
 つまり、それだけという事だ。
 重い身体と麻痺していた思考を戸惑いによって突き動かされ、エイミィに視線を移す。
 彼女と視線が合った。いつの間にかこちらを向いていたのだ。一度衝突した眼を逸らす事はできなかった。

「放っておけないって……それだけ……で……」
「それだけかなぁ? 十分な理由だと思うよ」
「だ、だって」
「そういうフェイトちゃんは、クロノ君のどこが好きなの?」

 明日の天気でも訊ねるかのような、何の気兼ねも無い声音だった。
 何と言われたのか分からなくて、フェイトは唇を訳の分からずに震わせる。
 口調とは裏腹に、エイミィは笑っていない。どんな危機的状況下でも決してユーモアを忘れず、リンディ・ハラオウンが艦長を務めていた頃からアースラを陰に日 向に支え続けて来た現在の通信司令は、ほとんど見せた事の無い感情を、そのあどけなさが抜け切った顔に浮かべていた。
 その感情が何なのか、フェイトには分からなかった。怒りでもなければ哀れみでもない。そんな簡単なものではないと直感で感じた。
 どうしてクロノが好きだと知っているのか。ここではそう聞き返してはいけない。そんな風にも感じる。

「……優しい、ところ……」

 だから、嘘偽りの無い事実を口にしなければならない。
 エイミィが笑う。初めて出会った頃のような無邪気な笑みに。

「そっか。うん、確かにそうだよねぇ。素直じゃなくて年上のお姉さんから言わせてもらえれば生意気な感じだけど」
「……何で……」

 分かったのか。エイミィはフェイトに最後まで言わせてはくれず、困った様子で肩を竦めてしまう。

「伊達にフェイトちゃんやクロノ君とは付き合い長くないよ? 今の二人を見れば何かあったなんてすぐに分かるもん」
「怒らない……の?」
「どうして怒らないといけないの?」

 質問を質問で返されてしまう。
 結婚する相手が決まっているのに、そんな人を好きになってしまった。それだけならまだ良いだろうが、フェイトは先を求めてしまったのだ。恋人同士で 交わす情欲を欲してしまったのだ。
 狡猾な裏切り行為。後ろ足で砂をかけるような酷い仕打ち。柔軟思考が服を着て歩いていると言われるエイミィでも、決して許容できないだろう。

「フェイトちゃん、女の子としてクロノ君を好きになったんだよね」

 肯く。それだけの行為なのに、凄まじい労力が必要だった。

「……告白もした?」

 震える腕。指を握り込んで耐え抜く。そして肯く。
 わずかな沈黙を挟んで、エイミィが口火を切る。口調は変わらず、軽いままで。

「そういう事をして欲しいって、言った?」

 逡巡しないはずが無い。でも、これ以上エイミィを裏切りたくはなかった。
 油の切れた機械が辛うじて動くように、フェイトは肯いた。
 緩やかな波のせせらぎ。渡り鳥の大きな鳴き声が耳朶を打つ。

「うん、納得できた」

 何に、とは怖くて訊けなかった。親の機嫌を窺う子供のようにエイミィの表情を盗み見る事しかできなかった。最低だと思った。
 裏切られたエイミィは――笑っていた。

「ここ一週間くらいね、クロノ君が縁側でお茶啜ってるお年寄りみたいにぼうっとしてるから、何かあったのかなって思ってて」
「ク……ロノ、が?」
「アースラがドッグ入りしてなかったら航行不能状態になってたかな。……ホント、真面目だよね、クロノ君って」

 静かに溜息をつく。夕陽で浅い陰影が刻まれたエイミィの横顔には、ある種の郷愁めいた感情があった。
 手のかかる弟に頭痛を覚えながらも、苦笑しながら世話をする。そんな感じだろうか。
 固唾を呑んで見守るフェイトの眼前で、エイミィはくつろいだ動きで缶コーヒーを口にする。

「私が怒ってるって思ってる?」

 どんな罵声が飛んで来ても喜んで受け入れよう。それだけの罪を自分は犯してしまったのだから。
 唇を噛み締めればすぐに血の味が舌の上に広がった。

「……フェイトちゃんじゃなかったら、ちょっと怒ったかな」

 訳が分からなかった。その言葉の意図がどんな角度から思案しても理解できず、フェイトの思考回路は瞬く間に紫電を撒き散らして停止してしまう。
 眼を白黒させる妹分に、エイミィはこう続けた。

「フェイトちゃんのお兄ちゃん子、ずっと見て来たからね。何かの弾みで変わっちゃうんじゃないかって思ってた」
「……そんなに……お兄ちゃん子だった、かな」

 そうしていたつもりも無かったし、自覚症状なんて皆無だ。あの日、クロノに抱いていた淡い感情に触れた時にようやく感じ取れたぐらいだった。

「かーなーりの、ね。はやてちゃんからも言われてたんでしょ、クロノ君以外の男の子に興味持たないと駄目だって」
「……はやて、話したんだ……」
「この前本局でばったり会って、一緒にご飯食べた時に」

 はやては良くも悪くも口が軽い。さりとて友達の秘密を何も知らない他人に話してしまうような事もなかったが、本人が問題無いと思えば手軽な世間話の話題の 一つにしてしまう。もしかしたら彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

「……私もね、好きだよ、クロノ君の事」

 胸を突き上げるような衝撃。知っていて、自覚していて、当たり前だった事実。
 身体が重くなって行く。後頭部に巨大な鉛でも括り付けられたかのような感覚に捉われて、身体がグラりと揺れる錯覚を覚える。

「でもね、色々決まった今でも時々思うんだ。不思議だなって」
「……不思議?」
「士官学校で出会った時はこーんなに小さくて、生意気で、愛想の知らないむっつり少年だった子とこうなるんだって思ったら、ね」

 手で当時の彼の身長を模したエイミィが快活に笑う。

「……子供の頃のクロノってどんな風だったの?」

 幼少の頃をクロノはほとんど話したがらない。興味はあったが話すように強請るのは憚られたし、魔導の師匠達に過去の事で絡まれていたのを眼前で見ているので、 触れて欲しくはない記憶なのだろうと思っていた。

「前に何度か話さなかったっけ?」

 満足な写真も残されてはいない。リンディも、当時は提督職に就いて間もない頃だったし、クロノは幼少と言うべき月日を師の下や士官学校で過ごしている。微笑ましい 家族らしい会話や思い出もほとんど無いと安易に予想はついた。だから訊かなかった。
 でも、エイミィは知っている。母親たるリンディすら知らない子供の頃のクロノを、彼女は知っている――……。

「ちょっとだけ」
「そっか。う〜ん、どう話せばいいかなぁ」

 顎に指を添えて思案顔となるエイミィ。確かに長い付き合いの記憶の中から一つを選ぶのはなかなか難しい。
 だからフェイトは質問を変える。ずっと前、もう誰から教えてもらったのか定かではなく、でも、頭の片隅に置かれていた事。

「クロノが、エイミィと会ってから少しずつ笑うようになったって、前に誰かから聞いたんだけど」
「ああ、まぁ……うん、そうかもね。言われても何か良く分かんないけど」
「そうなの?」
「一緒にいる事が多かったから。変わったところとかあっても分からなかったんだ。でも」

 言葉を区切ったエイミィが姿勢を変える。フェイトと同じように手すりに腰を預けて、夕陽に背を向けた。
 そうして、彼女はゆっくりと昔話を始めた。





 to be continued.





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 □ あとがき □
 読んでいただきましてありがとうございました。
 相変わらず公式通りに書くのが苦手です(汗)。時間軸的には最初のレリック事件が始まる前なのですが…。
 何か、ちょっと間違えばただのどろどろに…。
 次で終わります。





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