魔法少女リリカルなのは SS

Southern Cross

♯.10 Southern Cross









 本当にいつまで続くのかと疑問になる。
 窓から見える空模様は相変わらずの雨。飽くなき闘争心を持つ不屈の拳闘士の如く、一週間以上降り続いている。大雨ではないにしろ、こう続くと腹が立つを通り越して、 さらに呆れてしまうのも無視し、もうずっとこんな天気なんだと諦めてしまう。天気予報では連日の雨模様に何やら記録更新と嬉々として伝えているが、こんな鬱を 具現化させた分厚い灰色の空のどこがいいのか、出来れば細部に至るまで事細かく説明をして欲しい。
 何もなければ、きっとメディアはそんな風に思案していただろう。
 彼女がどっしりと腰を据えているリビングは、涼やかな快適気温に満たされていた。光熱費の関係で使用を控えていた人類の英知の結晶たるエアコンの恩恵である。

「管理局はおろかミッドそのものと連絡不能、か」

 ここ二日間、時空管理局とは連絡が取れない状態が続いていた。あらゆる手段を講じたが、そのすべてが音信不通で終わった。
 ミッドチルダに残して来た友人にも呼びかけてみたが、結果は同じだった。緊急用に幾つか設けていたラインも沈黙していて、誰も応答をしてはくれなかった。
 完全な通信途絶。二日目にして、メディアはようやくその結論に至った。

「ホント、意味分かんないわ」

 メディアは時空管理局をあまり好いてはいないが、彼らの職務に対する姿勢は評価して認めている。クロノやフェイトも含め、管理局局員達は実に誠実だ。適当な仕事は 絶対にしない。
 だからこそ、完全な通信途絶というのは考え難い異常事態だった。確かにこの世界は時空管理局の管理外世界に当たる。管理内世界と比較すれば、設けられている通信 施設や回線系統はずっと規模は小さい。

「それでも音信不通にはならないわよね」

 音声のみの最低限のやりとりは可能なはずなのだ。山奥で携帯電話の電波が通じなくなるのとは訳が違う。
 しばらくの思案の後、メディアは寝室の扉に視線を投げた。その部屋の主は、ここ数日メディアから十歳の少女に移っている。
 今日も彼女――フェイトは出て来ない。最低限の食事しか摂らず、終わると無言のまま部屋に戻って行く。

「もう病気ね」

 非難する訳でも嘲笑する訳でもなく、メディアは呟いた。
 フェイトが身に付けていたワンピースは、それなりに綺麗になって修繕されている。近所に住んでいる年期の入ったクリーニング屋に相談してみたら、意外にも あっさりと修繕作業を引き受けてくれたのだ。新品同様とはさすがにならなかったが、着るには問題が無いくらいに元通りになっていた。今はハンガーに引っ掛けられ、 寝室にある。
 綺麗になったワンピースを見て、フェイトはようやく弱々しく笑った。衰弱の為に唇も肌もガサガサになり、とても十歳とは思えない少女が見せた微笑は、素直に 正視出来るようなものではなかった。

「向こうと連絡つかないのと絶対関係あるわよねぇ」

 クロノもアルフも相変わらず迎えには来ない。この場所自体彼らには話していないので当然かもしれないが、管理局が本腰を入れて捜索すればすぐに見つかるはず なのだ。
 なのに来ない。何の音沙汰も無い。耳には変わらぬ雨音しか届かない。
 何かが起こる前触れのような、そんな静けさすら漂わせた二日間だった。
 メディアは溜め息をつく。この世界に来て初めて出来た友達が、”溜め息をつくと幸せが逃げるよ”と教えてくれたが、今は我慢出来なかった。
 突然現れた幽霊のような旧知の少女。迎えに来ない家族。音信不通となった故郷。
 これで何も感じず、能天気に自営業たるアンティークショップを開店させていられる程、メディアは鈍感ではない。

「よし」

 大きく頷いて、メディアはソファから立った。
 見えそうで見えない不明瞭感。はっきりとしない不快感。気持ちが悪い事この上無い。
 何かしなければならないという使命感は無い。義理堅い方だと自覚はあるが、メディアはどちらかと言えば恣意的な性格の持ち主だ。
 ただやりたいようにやる。今がその時だった。
 メディアは断りも入れずに寝室の扉を開けると、大股で中へ入った。
 薄暗い室内。中央に設えられたベッドには、金髪の少女が空虚な瞳でどこかを見詰めている。
 起きているのか寝ているのか。それすらも曖昧模糊の少女。
 異様に腹が立った。数ヶ月前に出会った少女は、その輝くような金色の髪と同様にとても眩しかった。引き締まった唇から語られる理想は、子供の絵空事のよう なもので、最初は鼻で笑っていた。
 理想を語るなら誰でも出来るのだ。悲しい思いをする人間を無くしたい? 寝言は寝て言えよ餓鬼。
 そんな感想を、少女は行動で捻じ曲げた。両親の仇を憎むあまり、世間を憎み、世界を拒絶したメディアを救おうと、少女は満身創痍になりながら戦い抜いた。
 事件が終わった後の少女の笑顔を、メディアはふとした瞬間に思い出す事がある。
 精根尽き果てながらも、何か一つやり終えたような、そんな蒼天とした笑顔。同性のメディアも見とれてしまう最高の笑顔だった。
 それが――。

「起きなフェイト」

 油の切れた機械のようにフェイトが振り向く。

「準備して」

 クローゼットの中から戻って来たばかりのワンピースを取り出して投げ渡す。フェイトは受け取れず、頭からワンピースを被った。
 赤ん坊のような稚拙な動作でワンピースを手繰り寄せる。
 続けて、メディアは自分用のジャケットを羽織る。耐魔性の防護服の一種だった。

「行くよ」

 簡潔に準備を終え、メディアが告げる。
 フェイトはワンピースを胸に抱き締めたまま、親鳥に庇護される雛鳥のように小首を傾げた。痛んだ金髪がパサリと垂れて揺れた。
 胸が締め付けられた。何が悲しい思いをする人間を無くすだ。だったらそんな悲しそうな顔をするな――!
 メディアは乱暴にフェイトの手首を掴んだ。小さな呻きが漏れる。驚く程軽くて細い腕に、胸の締め付けは痛みに変わった。

「ミッドチルダに行くんだよ」

 その一言に、枝のような腕が想像も出来ない力で動いた。
 メディアの手から逃れたフェイトは、その拍子でベッドから転げ落ちた。ドサリと重い音が響く。ベッドが派手に揺れて軋んだ。

「――い――や――」

 ベッドの向こう側で立ち上がったフェイトが細い声で拒絶の言葉を吐く。たったの一言。文字数にすればたったの二文字。なのに、いや、それ故なのか、確かな力 が込められていた。
 だが、メディアは臆さない。腰の辺りで腕を組み、フェイトを睥睨する。

「いやじゃない」
「いや」
「いやじゃないって言ってるんだよ」
「いや」
「昔言わなかったっけ? 私が子供が嫌いな理由」
「………」
「そうだ。我侭を言うからさ。我侭が子供は嫌いだ」

 言葉が徐々に男性の口調になって行く。メディアの本来の口調だった。

「私が優しいお姉さんだと思ったら大間違いだよ。知ってるだろフェイト?」
「……もう……いやなんだ」
「ミッドに帰るのが?」

 フェイトが強く首を横に振る。我侭な子供が駄々を捏ねるように。

「拒絶するのも、されるのも、私はもういや」

 ただ、何かに脅えた声だった。
 メディアは舌打ちをする。苛立ちを隠さずに髪を掻き揚げて嘆息づいた。

「……何があったんだい?」

 予想はついていたし、その予想に納得は出来た。詳細までは当然知る由も無いが、彼女の身に何が起きたのかは想像出来た。

「……私は、大切な……好きな、人を……傷つける事しか……出来ないんだぁ……!」

 震えた声が嗚咽となり、少女の唇からこぼれ落ちる。

「クロノの坊やの事?」
「……私は……クロノにも、なのはにも、酷い、事をして……! それで……!」
「だったら尚更だ」

 泣き腫らす少女の言葉を、メディアは問答無用で切り捨てた。ベッドを上に上がり、床に膝をついているフェイトの手首を掴む。今度は 逃げられないように。思い切り握り込む。

「私はあんたに同情しない。同情出来る情報を私は持ってない。あんたが何も話さないから。だから無責任な言葉であんたを貶せる」

 フェイトがどんな体験をしたのか、もちろんメディアには分からない。想像もつかない。だからこそ言える無責任な言葉なのかもしれない。どれだけ大人びた思考を 持って理想を掲げていると言っても、フェイトは所詮十歳の少女だ。辛過ぎる出来事を体験して、辛辣過ぎる言葉をかけられたのかもしれない。

「逃げるな」

 だからこそ言える言葉がある。

「……メディ、ア……」

 だからこそ向き合える事もある。

「悲しい思いをする人間を減らすんだろ? だったらまずは自分の悲しみを何とかしな。自分の面倒も見れない人間が他人の面倒を見るつもりかい?」
「……私に……そんな資格……!」
「十歳の餓鬼が資格があるとか無いとかホザくのかッ!? 自惚れるのも大概にしなッ!」

 襟首を掴んで引っ張り挙げる。鼻息がかかる程の距離で、メディアはフェイトの充血した瞳を睨み付けた。声を押し殺して言葉を噛み締めるように紡ぐ。

「多分あんたは私が想像出来ない体験をこれまで沢山して来たんだろうと思う。でもあんたはまだ餓鬼だ。人生の十分の一程度しか生きてない癖に意気がってんじゃ ないよ……!」
「―――」
「もう一度言う。逃げるな、フェイト」





「もう一度言う。逃げるな、フェイト」

 メディアはそう言って、語気の荒い声を締め括った。
 耳が痛くなるような静寂が寝室に漂う。
 フェイトは不意に悟る。射抜くようなメディアの眼を見詰め返し、不意に思う。
 逃げ出した。そうだ、自分はあの時逃げ出したのだ。

 自分をただの妹だと断言した大好きな人から。

 自分が大好きだった人の心を奪っていた親友から。

 傷だらけになって冷たくなった身体を引き摺り、許しを請う子供のようにフェイトは逃げ出した。二人に背を向けた。
 そしてここに居る。外からの情報に耳を塞ぎ、眼を閉じ、楽しかった思い出に縋る事もせず、人形のように振舞って逃げ続けた。

「あんたは何がしたいんだ?」
「―――」
「あんたは何を望んでる?」
「―――」
「答えな、フェイト」

 襟首を掴んだまま、メディアは言った。横柄で乱暴なその態度に、大体の人間ならば不満は抱くだろう。
 自分は何がしたいのか。
 自分は何を望んでいるのか。
 白紙のキャンバスのように真っ白の心の中で、フェイトは漠然と思案する。しかし、どれだけ考えても磨耗し尽くした感情が自分が何をしたいのかを考えさせて くれない。
 分からない。何が分からないのか、それすらも今は良く分からない。
 でも。

「……私は……」

 このままじゃいけないと思った。ただ漠然と。ただ茫然と。
 親友を拒絶してしまった事に後悔をする。
 大好き人と両想いになれたと思っていたのはただの思い違いで、その末に好きでも何でもないと言われた悲しさがある。
 自分が何をしたのか。それは分からないままだが、自分が何を望んでいるのか、それは分かったようが気がした。

「……いや……」
「何が嫌なんだい」

 間髪入れずメディアが問うて来る。縮こまってしまうような凄みのある視線を眼前に感じながら、フェイトは消えそうな声で言った。

「このままは……いやぁ……!」

 メディアの表情に変化は無い。眉を顰め、眉間に皺を寄せ、品定めをするようにフェイトの瞳を覗き込む。
 フェイトは顔を背けない。しゃくり上げながらも必死に睨み返す。か細く、健気で、貧弱な意思を惜しげも無く使う。
 そんな彼女を、メディアは鼻で笑った。でもその笑みは嘲笑ではなかった。

「上出来だ」

 意気込みを買う。そう言わんばかりの短い笑いだったのだ。

「それじゃ行くよ。ミッドチルダに――時空管理局に」



 ☆



 いつからか理解した。何となく分かった。
 これは夢だ。
 浮いている雲のように掴む所の無い一幕。酷く曖昧で、混濁としていて、氾濫している。そんな映像の群れ。
 でも心地良く感じる。いつまでも見ていたいと思う。いつまでも浸っていたと渇望する。
 季節柄珍しくもなかった雨の日。親友と喧嘩をした妹を出来る限り優しく迎えた。弱々しい笑みに心の痛みを覚えた。
 肌寒い冬の夜。眠い眼を擦りながら、妹がたどたどしく言葉を掛けて来る。その精一杯さが微笑ましかった。
 無人の食堂。好きになっていいですかと妹が訊ねて来た。当然のように頷いたが、とても照れ臭かった。
 雪の降る公園。妹が買ってあげたタイヤキを美味しそうに頬張る。その笑顔に身体は何故か熱くなった。
 白い病室。妹は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。自由な時間を犠牲にしている彼女に悪いと思いながら、心から嬉しいと思った。
 そして妹は言った。傷だらけの自分の背中に額とコツンとぶつけ、緩く握った手を添えて。

 ――私は、クロノの邪魔をするモノを切り払う剣になる。絶対になる……!

 どれだけ勇気が生まれただろう。
 どれだけ心強いと思っただろう。
 どれだけ嬉しかっただろう。
 夢は続く。父を奪った忌むべき事件の終結からの七ヶ月余りの時が暗転と出現を繰り返す。
 いつしか喜劇のみの映像は悲劇の色を帯びて行く。
 妹と初めて二人きりで出かけた遊園地。淡い陽の光、風のせせらぎ、緑のざわめき。それらに包まれていた彼を黒い何かが襲った。
 激突。
 増援。
 拮抗。
 再会。
 崩壊。
 擱座。
 まさに濁流だった。まさに氾濫だった。映像は彼がこれまで培い、育み、誇りにして来たスベテを破壊した。
 破壊の後に残るのは残骸。
 残骸を前に思うのは絶望。
 絶望の中に見るのは憤怒。
 憤怒に秘められるのは――憎悪。
 憎悪は己に向けられ、そして周囲に無色透明の刃を振り撒いて行く。
 悲劇が狂劇になった。夢という名の戯曲は熱を帯び、加速し、どこまでもどこまでも突き進んで行く。
 妹が立っている。眼を瞬かせ、胸元で指を握り、大好きな人から金槌で頭を殴られたような表情で立ち尽くしている。
 身が、心が、すべてが引き裂かれんばかりの衝撃が身体の中でのたうった。妹のそんな顔は絶対に見たくなかった。
 映像が切り替わる。

(今まであなたを支え! 強くしていたのは”力”ではない! 何故それを忘れてしまったんだッ!?)

 鞘から抜刀された刀のような美しさと静けさを秘めた女性が、喉も裂く絶叫で問いかけて来る。

(だからさ、今はスッゲー悲しい。ギガ泣きてぇ)

 いつも不機嫌そうにしている少女が、蒼い眼を見開いて泣いていた。

(私はあんたを許さないッ!!! 絶対に殺してやるッ!!!)

 単純明快を絵に描いたような快活な女性が、怒り狂った宣言をする。

(クロノ君なんて……大嫌い……!!!)

 屈託の無い無邪気な笑みが良く似合う少女が、水溜りを殴って吐き捨てた。

(殺してみせろよッ! 全部捨てたって、本気でそう思ってるなら僕を殺せよッ! クロノォッ!)

 両腕を血塗れにした少年が喉を裂きながら訴えて来る。

(……くろのが……すき、だから……)

 妹が泣きながら笑っている。汚水塗れになった灰色の服を着て、傷だらけになって、左の手に大きな大きな傷痕を持って。

 壊れたビデオテープのように流れて行く映像。向けられたのは憎悪と悲愴と渇望の感情だ。
 どこかで夢だと思うが、その度に現実だと囁く声がした。
 ――嘘だ。現実なはずがない。ただの荒唐無稽な夢なんだ。
 雨の降る公園を最後に視界が暗転した。
 そして、その男は現れた。

(お世話になっております。ゼニス社のデバイス設計・開発部門のレイン・レンです)

 白衣の男が笑っている。その微笑は意図が読めず、まるで曇った空のようだった。分厚い雲という微笑みの下には本性という名の空が広がっているのだ。
 男は口許に皺の深い笑みを作ると、まるで自慢話をするかのように饒舌に語り始めた。

(おめでとうございます)

 完成された一種の芸術品のような一礼をして、白衣の男。

(あなたはすべてを捨てました。その勇気を称え、何者にも屈しない、何者にも打倒されない力を進呈致しましょう)

 白衣の男が去って行く。追おうとすると、男が居た場所に何かが現れた。
 大きな人形が折り重なっていた。人形の大きさは大小様々だが、多くは無い。精々六人かその程度だった。
 不意に悟る。別に注視した訳でもない。何となく理解したのだ。
 大きな人形だと思った”それ”は、決して人形ではなかった。”人の形”と言えば確かにそうだが、それは明らかに”人そのものだった”。
 それは死体だった。極々親しい者達の変わり果てた姿だった。
 無数の刃に串刺しにされたシグナム。
 残骸となったデバイスを握り締めているヴィータ。
 全身に火傷を負ったアルフ。
 両腕を肉片にしたユーノ。
 痣だらけになったなのは。
 まさに死屍累々。その一番上に、塵捨て場に捨てられた人形のように金髪の少女の姿があった。
 裂傷だらけになったフェイト。
 大切な者達。守らなければならなかった者達。そんな人間達の死体の向こう側に、男は汚れ一つ無い白衣を靡かせて佇んでいる。

(君の為に礎になった皆さんです)

 嘲笑うように、蔑むように、白衣の男が言った。

(君が強くなる為に殺した方々ですよ?)

 死体を見る。彼女達は動かない。
 シグナムも、ヴィータも、アルフも、ユーノも、なのはも、フェイトも、指先一つ動かさない。
 当たり前だ。死んでいるのだから。
 記憶が一気に思考に飛び込んで来た。何の前触れも無く吹き荒れる突風のように、”忘れようとしていた記憶”が脳裏と網膜に意思とは関係無く浮かんで来る。
 白衣の男の言葉は狂言でも何でも無い。
 事実だ。
 決して否定出来ない。決して眼を背けられない。決して逃げられない。
 厳然たる事実だった。
 ――僕が殺した。
 そうして視界と意識が一斉に弾けた。
 夢だと己に言い聞かせていた狂劇に終止符が打たれた瞬間だった。
 遠ざかる景色を目の当たりにするように、狂った映像が手の届かない向こうに引き伸ばされて行く。その果てにぐにゃりとひしゃげた。
 暗転するまでの数瞬の間、彼は悟る。
 あの心地良い七ヶ月には、もう戻れない。そう、絶対に。





 強烈な消毒液臭が不明瞭だった意識の形成を手助けした。照らして来る光は強く、瞼を閉じていても容赦なく網膜を刺激して来る。室内の照明にしては度が過ぎる 明るさである。
 いや、そもそもここは室内なのかという疑問がある。目覚めたばかりの意識は、火の入った自動車のエンジンのように徐々にはっきりとして来た。
 それでも速度は遅い。あの夢のせいだろうか。死体になってしまった親しい者達の映像がそうさせているのだろうか。
 彼は眼を開ける事にした。瞼は鉄の扉のように重かった。何度か挑戦をして、数回目で何とか動いた。
 最初に見えたのは円形の照明と白い天井だ。見覚えがあった。

(本局内の病院……か?)

 何度かベッドから見上げた事がある天井と、眼の前の天井は同質のものだ。
 ここは時空管理局本局内に設営されている総合病院の一室である。鼻腔を突いて来る強い消毒液の匂いから容易に想像はついた。
 感覚を取り戻した聴覚が、医療機器が発する定期的な電子音を捉える。まるで鼓動のようなその音は、クロノの心拍数を表している物だった。

「……気分はどう?」

 優しげな声が聞こえた。こちらを覗き込んで来た母親が、いつもよりもずっと柔らかな微笑みを浮かべていた。

「……母さん」
「私が分かる?」

 クロノは頷いて答えた。
 リンディ・ハラオウン。時空管理局提督。L級八番艦船アースラ艦長。そして母親。
 どうしてそんな分かり切った事を訊ねるのだろう。
 クロノは身を起こそうと上半身に力を入れる。母親とは言え、いつまでも寝たままで話すのは失礼だ。

「無理しないの。寝てなさい」

 リンディがそっと止めに入る。暖かな掌が額を覆った時、身体全体が包まれるような錯覚を覚えた。
 目覚めたばかりなのに深い眠気が忍び寄って来る。身を任せてしまえばどんなに楽だろう。温もりが残っているシーツが眠気を助長して来る。
 だが――。

「……いえ、起きます」

 眠りに落ちる訳にはいかない。眠る訳にはいかないのだ。
 日頃の癖なのか、明瞭としないクロノの意思とは別に、身体が勝手に身体機能のチェックを行い始めた。
 骨格と神経系統に違和感は無い。痛みも無く、ほぼ健康状態を維持している。指先を軽く動かして簡単な確認をした後、片方の膝を立ててみた。問題は無かった。
 確認作業がもう一つの心臓たるリンカーコアに及んだ時、作業一時中断となった。
 機能が大幅に低下しているのだ。一応は最低限の稼動状態は維持している。大気中に存在している魔力素も取り込んでいるし、活性化させようと躍起にもなっている。 だが、やはり鈍いのだ。搾り取られたかのように弱々しい反応しか返して来ない。まるで圧縮されて果汁を根こそぎ搾り出された果物のようだ。
 リンカーコアの点検を一旦を終えて、チェック作業はいよいよ思考へと移行する。
 掌を見る。
 潰れた肉刺で硬くなった無骨な掌。五本の指をゆっくりと広げ、ゆっくりと閉じる。

「クロノ。少し休みなさい」

 リンディが言った。声は母親らしく優しいままだ。

「リンディ提督」

 だからクロノは役職名で母を呼んだ。

「――何かしら、クロノ」

 切り替えの為に。自分自身だけではなく、彼女にもそうさせる為に。

「答えて下さい」

 これから喉を通る言葉には、親子ではなく、時空管理局提督と時空管理局執務官という関係で向き合わなければならない。

「僕は」

 そうしなければ、きっと耐えられない。

「シグナムに――ヴィータに――」

 彼女も。

「アルフに――なのはに――」

 そして、自分も。
 思考が徐々に輪郭を取り戻して行く。眩い光に眼が慣れるように。頭の中が本来の理路整然としたものとなり、ごちゃごちゃになっている記憶や意識の整理整頓を 始めた。
 脅えた子供がしがみ付くように、クロノはシーツを握り締めていた。掌は不快な汗でいっぱいになってシーツを湿らせて行く。
 喉が渇いた。
 口の中が粘り気のある唾液で支配される。
 水分を求めて喉が鳴った。
 整理された記憶と意識が結論に達する。
 あれは夢ではなかった。荒唐無稽の戯曲でもなければ、意味不明の悪夢でもない。
 悲劇と狂劇の前にあった喜劇。暖かな思い出。ずっと浸っていたい居心地の良い記憶。
 あれらは存在した時間だった。闇の書事件が終結してから、デバイス暴走事件が起こるまでの七ヶ月間に確かに起こった出来事だった。
 フェイトとなのはが喧嘩をした。
 夜遅くに、フェイトと二人で話をした。
 アースラの食堂でフェイトに告白された。
 買い物の帰りにタイヤキを買って、二人で食べた。
 失敗と事故が重なって入院をして、フェイトに介護してもらった。
 ”クロノの剣になる”と、フェイトに宣言された。
 喜劇だけが現実で、悲劇と狂劇が悪夢だという都合の良い話があるだろうか?
 あるかもしれない。でも、今のクロノはその可能性を最初から考えていなかった。
 理路整然とした記憶と意識が捨てさせたのだ。
 悲劇は確かに起こったのだ。
 クロノは守れなかった。再び魔法戦闘に巻き込まれたアリサ・バニングスを助ける事が出来ず、守る事が出来なかった。
 クロノは殺してしまった。他に執るべき手段が無かったとは言え、暴走したデバイスに寄生された魔導師を物言えぬ身体にしてしまった。
 クロノは傷付けてしまった。本来守らなければならない金髪の少女を。感情のままに酷い言葉で罵倒した。
 クロノは憎んでしまった。無力な自分を。才能の無かった自分を。
 クロノは縋ってしまった。白衣の男を。力をくれるというあの男を信じてしまった。
 悲劇を狂劇に変えたのは、紛れもなくクロノ自身だった。
 明らかな過剰殺害の火力でシグナムを再起不能に陥れた。
 ヴィータの信頼を根底から裏切り、泣かせた。
 塊のような憎しみをアルフに抱かせた。
 連れ戻しに来てくれたユーノを引き裂こうとした。
 好意を抱いていたなのはに殺し合いを要求した。

 そして――フェイトを殺そうとした。

 憎んだ。
 邪魔だった。
 疎ましかった。
 あの子の微笑みが自分を掻き乱すと思い込んだ。
 土下座しても許してもらえないような言葉を浴びせた。
 殺傷設定の射撃魔法で攻撃した。
 全身に裂傷を負わせた。
 左手と脚を射抜いた。

「ぼ……く、は……!」

 あの七ヶ月間。フェイトはずっとこんなコトバを口にして来た。

『私も、好きになってもいいですか』

『私は……クロノの事が好きだから……クロノにも、私の事、もっともっと好きになってもらいたいから……』

『私は好きな人の看病がしたいんだ……』

『……くろのが……すき、だから……』

『だい、すきなひと……と……たた、か、えるわ、け……ないよぉッ!』

 家族に向ける好意だと思っていた。でも本当は違う。違ったのだ。

「フェイトに……!」

 フェイトは異性としてクロノに好意を寄せていたのだ。
 今までずっと伝えて来た”好き”というコトバは、少女が少年に向ける告白のコトバだったのだ。
 彼女が胸に秘め、ずっと抱き、暖めていた想いは大きかった。
 さもなければ、あんな仕打ちを受けても尚”好き”とは絶対に口に出来ない。

「何を……したんですかぁ……!!!」
「クロノ、いいの。今は休みなさい。ね?」

 リンディが背中を擦って来る。
 クロノは堪え切れなかった。完全な形となって思い出された記憶が、自分自身の行いを痛感させて来るのだ。
 形容出来ない感情は嗚咽となり、捻られた蛇口のように吐き出された。
 それが途切れる事は無かった。





 to be continued.





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 □ あとがき □
 読んでいただきましてありがとうございます。
 久しぶりにクロノとフェイトで一色なSC。何だか前半が懐かしく思います。
 しかし、文書を書くとはかくも難しい…orz
 では次回も。






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