小鳥の声さえも聞こえない朝。早朝と言うよりも夜更けと呼んだ方が正しい時間帯。
 フェイト・T・ハラオウンは、呼吸と気配を顰めて、ゆっくりと自室を後にする。手には真新しい着替えがあった。
 綺麗な床材を軋ませないように慎重に歩き、バスルームへ。これまた細心の注意を払い、音を立てずに中に入る。
 熱いシャワーを浴びて、入念に髪を洗う。もちろん身体もだ。十二歳になって成長の兆しを見せ始めていた少女の身体は、二年前のあの時に比べて大きくなっていた。 もっとも少しだけだ。顕著な伸びではない。
 そんな身体を綺麗にして、三十分以上たっぷりと時間を使って髪を洗い、梳く。
 温まったフェイトは買ったばかりの下着を身に付けて、髪を乾かした後、自室に戻った。起床して一時間が経っていた。
 閉められていたカーテンが朝陽を吸い込み、室内は薄暗いままだった。フェイトはチェストから櫛を手に取り、髪を梳きながらカーテンを開ける。
 良い空だった。梅雨時にしては珍しく、雲ひとつ無い。
 フェイトは髪の手入れを終えると、クローゼットを開ける。中にはお気に入りの服達が理路整然と詰め込まれている。
 何着か手に取って、姿見の前を行き来する。どれが一番似合うか、それこそ時間をかけてじっくりと吟味する。
 おかしな格好をして行く事なんて許されないのだ。
 精一杯着飾って、精一杯可愛く見える身形で、精一杯の笑顔で迎えに行く為に。
 姿見に映った自分の表情を見て、フェイトは軽く驚いた。自覚無く笑っていたのだ。
 胸に手をやれば、何かに期待して鼓動を早めている自分の心臓を感じる事が出来る。

「お、落ち着かないと」

 その為に深呼吸を繰り返してみるが無駄な抵抗だった。逆に意識してしまって、心臓は激しい運動の後のような速さで跳ね始めた。
 鏡の中の自分が林檎のように赤くなっていた。ぶるぶると頭を振って、”彼”を迎えた後の光景を想像する自分を叱責する。
 それでも、少女の想像力はそれなりに豊かだったのが災いした。どんどん着色が成されて行き、終いには妄想に成り果ててしまう。
 フェイトはもう一度頭を振る。今度は強い。軽い眩暈を覚えてしまいかねない勢いだ。

「……まずはお帰りって言わないと……」

 そう。まずはそこからだ。
 二年ぶりに戻って来る大好きなヒトに告げる最初の言葉は、ずっと前からそれに決めていた。
 服は決まった。黒と赤のシンプルなワンピースドレス。昔着ていた物と良く似ている。
 髪を二つに結わえようか下ろそうか迷ったものの、すぐに後者を選んだ。戻って来る”彼”は十七歳になっているし、きっと背丈も伸びていて大人っぽくなっている だろう。髪を下ろせば多少なりとも外見年齢は上に見られるようになるし、大人になった”彼”とつり合いも取れる。そう考えた末の選択だった。
 髪型も服装も決まり、後は爪やその他の身形を確認する。用意は周到にしておいても損は無いのだ。
 すべて問題は無かった。姿見で自分の姿をもう一度確認して、フェイトは満足げに頷く。
 最後にと、フェイトはベッドの枕脇に置かれていたタロットカードを取った。革紐で首から提げられるようになっている大きめのカードだった。
 革紐に首を通して胸元にカードを持って行く。十二歳の少女がアクセサリーとして持つには無骨過ぎる品だった。装飾品に眼を引き付けるような可愛さは皆無である。 金属製の表面が射し込んで来る朝陽に反射して、淡く輝いた。

「今日で君ともお別れだね」

 言葉としては悲しいはずなのに、少女の声音にはひとかけらの悲嘆さも無い。新しい門出を祝うかのような明るい声だった。
 金属のカードを優しくなぞる。何かを思い出し、懐かしむかのような指。

「……一緒に迎えに行こうか」

 ストレージデバイスの待機状態たるカードは言葉を返さない。そんな機能は初めから搭載していない。
 なのに、フェイトはこのデバイスが――S2Uが頷いたように感じられた。もちろんただの思い違いなのは分かっているが、何となくそんな感じがしたのだ。
 眼を細めて軽くS2Uを抱き締めたフェイトは、自室を出る前に長年の相棒に一声を掛ける。

「バルディッシュは、その、ごめんね。お留守番してて欲しいんだ」

 机上に敷かれたハンカチに鎮座している金色の台座が短く明滅する。言葉は無く、無言の返答だった。
 この鋼のデバイスとフェイトの間に言葉は不要に近い。時折、フェイトは無口過ぎる相棒に不満を覚える時もあったが、意思疎通は自分でも驚く程に滑らかに、さらに 簡単に出来ている。

「ありがとう、バルディッシュ」

 腕時計を右手に巻く。少女の腕には無骨な感が否めまい古びた年代物だ。小学校に付けて行って、担任教師に不思議そうな顔をされてしまった一品である。
 最後に左の手首に黒いリストバンドを付けて、出掛ける準備はすべて終わった。
 時刻は七時過ぎ。朝が早いと言われる時間帯のままだ。事前に聞かされていた約束の時間まではまだ遠い。何か時間を潰す物が必要かもしれない。

「……要らないかな」

 この逸る気持ちが、きっと待ち時間の経過を早めてくれるはずだ。
 フェイトの中では時間を合わせて家を出るという考えは最初から無かった。
 だって、今日までずっと待ち続けて来たのだから。
 フェイトはバルディッシュを指で撫でると、軽い足取りで部屋を出る。先程と変わらない忍び足。日頃の激務で惰眠を貪っている姉のような女性や、そんな彼女を 手伝って一緒に眠っている姉兼妹の使い魔、遅くまで残業に追われて数時間前にようやくベッドの中に潜り込んだ義理の母を起こしてはいらない。彼女達に悪いし、 こうして迎えに行くには早過ぎる時間に家を出る自分を見て何を言って来るか分かったものでもない。
 玄関まで走って行き、靴を選ぶ。これはすぐに終わった。即決に近かった。
 フェイトが踵を入れたのは、くたびれた感のある赤い靴だった。
 静寂な我が家を振り返って、フェイトは夢の中に居る家族達に小声で告げた。

「クロノを迎えに行って来ます」

 玄関の扉をゆっくりと閉める。カチャリと音が鳴ってロックが掛かった。
 朝の気持ちの良い空気を胸いっぱいに吸い込んで、フェイトは共通通路を駆け出した。
 目指す場所は海鳴臨海公園。そこに今日、クロノ・ハラオウンが帰って来る――。



 ☆



 二年が過ぎた。

 あの事件を思い返す事は多い。それはフェイトだけではなく、きっと皆だろうと彼女は思っている。
 爪痕は未だにあちこちに残されている。時空管理局はすでに完全な復旧を果たしているが、事件対策本部施設が設置されていたミッドチルダ中央都市――首都 クラナガンの中央部の再建計画はまだまだ前途多難が続いていた。百体以上の暴走デバイスとの主戦場になったと思えば、原型が残っているだけでもマシだろう。

 フェイトは小走りで早朝の街中を駆けて行く。リンディから聞かされていた時間までまだまだ数時間以上あるというのに、心は急いて止められそうにもなかった。

 高町なのはは武装隊士官として最前線に立ち、着実な戦果を上げていた。誰かの笑顔を守る為に自分が傷付く事も顧みない少女は、夢としていた戦技教導隊への 編入・移動の話を聞いて、ぼろぼろと涙をこぼしていた。そんな彼女の肩を抱いた記憶はまだ新しい。
 八神はやては脚の完治を持って、長年付き添っていた車椅子ともお別れをした。名残惜しそうに車椅子に触れていた光景は良く覚えている。そんな彼女も、 リインフォースから引き継いだ貴重な魔法技術を行使して犯罪捜査に当たる一端の特別捜査官だ。
 守護騎士達はそれぞれの部署に出向する機会が増えている。シャマルは医療班、ヴィータは武装隊、ザフィーラはその内の誰かの護衛である。
 シグナムは一時期は戦技教導隊への移動の話が出ていたが、彼女はそれを丁重に断り、特別捜査官補佐としてはやての側に仕えている。二年前の傷も完治して、 フェイトを鍛える事にご執心だ。

 小さな胸の前でS2Uが揺れる。どきんどきんと鼓動を速め続けている心臓を現すかのように。

 ユーノ・スクライアは無限書庫で事件資料との飽くなき戦いを続けている。司書としての仕事もすっかり板に付き、風格さへ漂って来た。無限書庫初の司書長になる 日もそう遠くないかもしれない。ただ、彼は評価されて嬉しいとは言っていたが、なかなかなのはと会えないと愚痴をこぼしていた。
 リンディ・ハラオウンはアースラの艦長としての勤務を続けている。デバイス暴走事件解決直後は、シグナムと共に保安課の局員達に対して行った戦闘行為が問題となり、査問 委員会にまでかけられたものの、結果として事件解決に結びついたとされて解雇には至らなかった。謹慎処分と減俸、一時的な降格処分等の処分を受けたものの、 それもすでに解けている。今では良き上司、良き母として接してくれている。彼女が作る厚焼き玉子はフェイトの好物の一つだった。
 エイミィ・リミエッタは相変わらずの柔軟思考で、アースラの良き清涼剤代わりを担っている。十九歳にもなり、そろそろ顔立ちが女性のものになって来たものの、 性格的な部分での子供っぽい部分はまだまだ健在だった。ちなみに旋毛の寝癖も健在である。
 アルフは元気にエイミィ達の手伝いに奔走していて、最近では多忙なユーノのフォローにまで回っている始末だ。シグナムと同様に傷も完全に癒えて、元通りの 天真爛漫っぷりと遺憾なく発揮している。ザフィーラとの仲が進展しているかどうか、時折フェイトは意地悪をするように訊いている。返答は言わずもがなというべきか、 本人が言うにはそれなりだそうだ。

 塩の匂いが僅かに濃くなる。見慣れた道路の向こう側に青い水平線を望む事が出来た。

 アースラの面々も二年前の事件が起こる前に戻った。アレックスとランディは暇を見つけてはボードゲームに熱中しているし、ギャレットは武装局員としてなのはに あれやこれやとレクチャーを受け、最近目覚しい成長も見せている。船体も長い修繕作業を終えて、巡航任務を再開していた。
 レティ・ロウランはリンディと共に長期処分を終え、以前と同じ人事関連の職場に復帰した。ただ、最近は一人息子が管理局運営の士官センターに入学した事もあって、少々 落ち着きが無くなっている。職場では凛とした母だが、どうやら子供には甘いようだ。マリーは装備課で主任クラスの役職を与えられ、張り切って用途不明の装備を 作っていたりする。二年前の事件の時、クロノとユーノが使用した大型二輪駆動車を正式採用させようとして失敗したとの事だ。

 手摺に捕まって、フェイトは思い切り呼吸をする。
 青い空を仰げば朝陽があって、眼前には蒼い海原を望む事が出来た。

 フェイト・T・ハラオウンは執務官となり、アースラに属している。
 合格率十五パーセントという狭い関門を一発で突破した。まだ一年あまりとキャリアは短いが、前任者――クロノ――に勝るとも劣らない実績を上げ続けている。
 全員が全員、多かれ少なかれ何かしらの変化をして、この二年間を過ごして来た。
 嬉しい事もあった。嫌な事もあった。悲しい事もあった。楽しい事もあった。
 四季が二回巡り、来年には小学校を卒業する。義務教育が終わればクラナガンに引っ越そうかという話も最近出た。まだまだ先の事だし実感ももちろん無いが、 フェイトはこの街が好きだ。どうしようか、今から迷っている。
 執務官としても、まだ小さな少女としても、充実した二年間だったと思う。
 でも、いつも満たされていなかった。
 満たされるはずがなかった。
 それはフェイトだけではなくて、彼女の周りの人間達全員がそうだった。
 フェイトが執務官試験に合格した時も。
 なのはに戦技教導隊移動の話が持ち上がった時も。
 はやて達の下に新しい家族――小さなリインフォースがやって来た時も。
 嬉しい時。嫌な時。悲しい時。楽しい時。そんな時に、皆の側に欠けている人が居た。

 フェイトは塩の匂いがする風を頬で感じ、波の音を耳にしながら、海沿いの道を歩き始める。

 フェイトが一番側に居て欲しかった人が居なかった。
 どこか遠くの次元世界に行ってしまった人。
 顔も見れなくなって、声も聞けなくなって、温もりも感じられなくなって、もう二年が経った。
 片時も忘れた事は無かった。
 辛い時は長かった。夢に見て泣きながら起きて、声を押し殺して嗚咽をこぼした回数は一度や二度ではない。
 事件解決後に取っていた長期休暇を終えて管理局に復帰した時、微かではあるが、嫌な眼差しを向けられた事もあった。それだけ事件の爪痕が大きかったのだ。
 執務官試験の面接の時も事件の事を多かれ少なかれ訊かれた。無神経な質問をした提督局員に同席していたレティが憤怒して張り倒した事もあった。
 今にして思えば、フェイトはいつも誰かに支えられていたような気がする。
 気持ちの面でも身体の面でもふらついていたつもりはない。しっかりと二本の脚で地に立って歩いて来たつもりだった。
 でも、もしかしたら周りから見たらそうでもなかったのかもしれない。

「しっかりしなきゃいけないね、私」

 意識して気丈に振舞っていたつもりはない。
 だが、なのはや母達に背中を支えてもらっていたのは事実だ。
 こんな弱い自分を見たら、彼は何て言うだろうか。
 好きな人にすがっていたい訳ではない。そんな対等ではないあり方は嫌だ。
 ただ、側に居て欲しかった。
 名前を呼んで、髪を撫でて、抱き締めて、優しくしてくれるだけで良いから。

「着いた」

 呟く。
 開けた場所だ。近くには小さな時計塔がある。臨海公園ならどこにでもあるような場所。
 三年前、なのはと共にフェイトが初めてクロノと出会った場所。
 二年前の事件の時、フェイトとクロノが悲しい再会をした場所。
 ここが、無期懲役という刑から僅か二年で仮釈放となったクロノ・ハラオウンが帰って来る場所だった。
 フェイトは時計塔まで歩くと、それに背中を預けるように立つ。
 まるで――そう、まるでデートの待ち合わせ場所に先に来てしまった女の子のように。
 綻ぶ顔が我慢出来ず、フェイトは軽く俯いた。
 まずはお帰りと言おう。その後はうんと甘えるんだ。
 本来なら二年という服役期間は短過ぎるが、待ちぼうけを受けていたフェイトから見れば充分に長過ぎた。
 声変わりをした彼は一体どんな声なのか。背は本当に伸びているのか。怪我なんてしていないだろうか。
 思うだけで悲しいだけだった想像は、今日想像でなくなる。
 戻って来てくれるのだから。実際に問いかける事が出来るのだから。
 フェイトは空を見上げた。

「早く時間、過ぎないかなぁ」

 十二時。それがクロノがここに――フェイトの下に戻って来る時間だった。



 ☆



「フェイト、やっぱり行っちゃった?」

 挽き立てのコーヒーをテーブルに戻して、リンディが問うた。茶請けのように用意されているクッキーに手を伸ばす。

「はい、みたいです。っていうか艦長、フェイトちゃんが行っちゃうの分かってて言ったんですか?」

 エイミィがYシャツ一枚というだらしのない格好でキッチンから出て来た。手には湯気をくゆらせているマグカップ。
 彼女は椅子に座ると、いただきますと言ってクッキーを口に放り込む。

「楽しい秘密は隠すのが大変なのよ」
「そりゃ分かりますけど……。私も迎えに行きたかったです」
「ごめんなさいね、エイミィ」

 クッキーの食べ残しをマグカップを満たしているコーヒーで喉の奥へと流し込む。目覚まし用の無糖の効果は抜群だった。

「いいえ、構いません。それに着いて行っちゃうとフェイトちゃんに睨まれそうで」

 そう言って、エイミィはあははと笑った。

「まぁ、それはもちろん冗談ですけど。……再会は二人きりの方がロマンチックかなと思いまして。不肖エイミィ、可愛い弟と妹の為に自粛致しました」
「そんな気を使わなくてもいいのに」
「使っちゃいますよ。何せ二年ぶりの再会ですからね」
「……二年か」
「ええ」

 二人は揃ってコーヒーを口に運ぶ。
 ふと窓に眼をやれば、朝陽が床を眩しく照らしていた。小鳥のさえずりはもう聞こえない。平日という事もあって外は静かなものだ。

「フェイトの欠席届け、出しておかないと」
「ただでさえ早退とかが多いですからね」

 学業と執務官の両立は予想していたよりも難しい。急務が入れば早退せざるを得ない場合もあった。小学生で早退を連発するのは些か問題がありというか、それで リンディが学校に呼び出された事もあるぐらいだ。無断欠席になると少々洒落にならない。

「アルフは?」
「まだ寝てます。昨日は遅くまで整理手伝ってもらっていたんで」

 ハラオウン家は本日全員有休を取っている。クロノの帰還に合わせて、エイミィも含めて申請したのだ。処理し切れない書類整理や処理はテイクアウトになってしまったが。

「艦長は一緒に行かなくて良かったんですか?」
「……そうね。まぁ、あなたと同じ理由よ」
「艦長はお母さんなんですから、そんな遠慮する事も無いと思うんですけど」
「母だから、かしら」

 マグカップのコーヒーが、リンディの顔を映し出す。

「落ち着いたらでいいのよ」
「しばらくかかるんじゃないですか? 多分皆に揉みくちゃにされますよ、クロノ君」
「それだけウチの息子が皆に愛されるって事だから、構わないわ。それに、二年間もここから離れていたんですもの。思う存分揉みくちゃにされちゃった方がいいんじゃないかしら」

 エイミィが痛快そうに笑った。

「なら、思う存分揉みくちゃにしちゃいます。ヴィータちゃん辺りだったらアイゼンで殴られそうですけど」

 リンディはそれも良いと思った。彼がこの二年間に自分達に誰だけ心配をかけて来たか。攻撃魔法の一つや二つ、軽いものだろう。
 そんな思いが、不器用で無愛想で、言ってしまえば親不孝な息子が帰って来るのを実感させてくれた。

「……そうね。落ち着いたら、まずは軽く叱ってあげなくちゃいけないわね」

 リンディが椅子の背もたれを軋ませたその時、天井近くの空間に仮想ディスプレイが投影された。元は闇の書事件で管理局の 駐屯地として運用されていたこの部屋には、緊急用の特殊回線がそのままにされている。
 映し出されたのはレティ・ロウランだった。

『……ごめんなさい、こんな日に……』

 真っ先に謝罪をする級友の表情に、リンディは彼女の要求をすぐに察した。ついつい溜め息が唇から漏れてしまう。
 まったく、どうしてこうも。揃って有休を取っていたというのに。

「事件ですか?」

 それも、有休中の局員を駆り出さなければいけない程の切迫した内容なのだろう。
 レティが答えようとする前に、マグカップのコーヒーを飲み干したリンディが勢い良く椅子から立ち上がった。
 表情を変え、意識を切り替える。艦橋の艦長席でいつもしているようにコホンと咳払いをして、仮想ディスプレイ内の級友を見上げた。

「すぐに行くわ。現場に直接向かった方がいいかしら?」
『……いえ、まずはアースラと合流して。アレックス達にはもう現場に向かってもらっているから』
「分かったわ。エイミィ、準備を」
「了解しました。アルフはどうしましょう?」
「……来てもらいましょう」

 僅かな逡巡の後、そう答える。エイミィは首肯してバタバタとリビングを出て行った。
 レティに事件内容を簡単に説明してもらって通信を切る。本当に申し訳なさそうにしている級友に水臭さを覚えて、リンディも自室に急いだ。せっかくの再会の日に 事件を起こした無粋な犯人に腹は立ったが、起こってしまった以上は時空管理局提督としての義務を果たさなければならない。
 ただ、フェイトに知らせるつもりはなかった。
 せっかく二年ぶりに会えるというのに、それを先延ばしにさせてはあんまりだ。
 誰よりもクロノが戻って来るのを心待ちにしていたのだ。そんな健気で一途な娘を任務に駆り出すなんて出来るはずがない。
 レティもフェイトに関しては一言も言わなかった。ただ、『フェイトちゃんはもう出たの?』と訊くだけだった。
 エイミィの部屋の前を通ると、アルフの不満そうな声が聞こえた。出動する義務があるとは言え、駄々を捏ねたくなる気持ちは分かる。
 そろそろ時刻は八時半。どれだけ素早く事件を解決したとしても、色々と時間を取られて戻って来るのは夜頃だろう。その頃にはクロノはこの住み慣れた家に戻って 来ているはずだ。

「……それまで二人きりか。まぁ、それもいいかもしれないわね」

 リンディは小走りで自室に入ると、忘れない内に聖祥小学校に電話を掛け、娘の欠席を伝えた。



 ☆



 人通りが無くなった。
 ジョギングをしていた若者も、犬の散歩をしていた老人も、誰も居ない。
 人気の無くなった塩の香りのする公園で、フェイトは立っていた。時計塔に背中をぴとりと合わせ、そわそわと落ち着かない様子で身じろぎをする。時折、左右に 首を巡らせて辺りを伺うが、予定の時間より三時間近く早いので、求める人影が見当たるはずもなかった。
 海原から吹き込んで来る風に髪が靡けば、急いで手櫛で直した。
 ドキドキが止まらなかった。
 胸の内側から響いて来る規則正しいはずの心臓の鼓動は荒くなる一方だった。
 腰の後ろで指を繋ぎ、爪先で地面を軽く蹴る。
 時計を見れば、アンティークのような時計の針が九時過ぎを差していた。

「……まだだよね」

 五分に一回は、いや、それ以上のペースで時計を覗いているかもしれない。
 でも憂鬱な溜め息は出ない。フェイトの胸は期待に膨らみ続けて、それこそ爆発してしまいそうなのだ。
 クロノが刑期を終えて戻って来るという知らせが来たのは一昨日だ。最初は実感が無くて呆けていたが、半日が過ぎた辺りでようやく飲み込めた。
 嬉しかった。泣いて泣いて、泣き疲れて眼を腫らしてしまうぐらいに泣いた。一昨日はそのまま寝てしまった。次の日に学校に行ったら、なのは達に何かあったのかと 詰問されてしまい、たどたどしくクロノが戻って来ると話した。すると、親友達は優しく肩を叩いてくれた。そこでまた泣いた。

「学校休んじゃったなぁ」

 罪の意識はあるものの、どうしても我慢出来なかったのだ。喩え叱られる事になっても構わなかった。
 最低でも十年は待たなければいけないと思っていた待ちぼうけの日々が、唐突な知らせで終わりを迎えたのだ。
 胸の奥に鎖で雁字搦めにしていた衝動と感情が濁流のように溢れてしまい、止められる術なんて無かった。
 今のフェイトの頭の中では、どうやって甘えようかというある種の計画表のようなものが出来上がっていた。
 取り合えず、一日中抱き着いているつもりだった。
 離れるもんか。二年も待たされたのだ。覚悟していたよりもずっと短かったが、それでも充分に待たされた。本人が嫌がっても離れるつもりなんて最初から無い。
 取り合えず、今日の夜辺りまではくっつき虫で過ごす。食事の時は我慢して離れて、お風呂は――。

「………」

 何を考えているんだろう。彼も本気で嫌がるかもしれない。さすがにそれはまずい。
 でもまぁ、嫌がられなければ――。

「一緒に……」

 さすがに恥ずかしいので、最後まで言えなかった。
 風呂を終えた後は一緒にベッドに潜り込んで、眠るまで二年間の事を話すのだ。
 辛い事や悲しかった事が大半になる。楽しい事や嬉しい事も沢山あったが、やっぱり沈んでいた時間の方が多かった。
 そんな話をしたら、クロノは一体どんな顔をするだろう。
 フェイトは眼を伏せると、地面を蹴るのをやめた。

「クロノは……寂しかったのかな」

 この二年間、彼はどんな思いで刑を受けていたのか。
 自分と同じように辛くて悲しかったのだろうか。

「訊いたら答えてくれるかな」

 自分と同じならいいな。そう思って、フェイトは腕時計を見た。針はちっとも進んでいない。






 十一時を回った。
 少し人気が増えた。とは言っても買い物に出た主婦が通るくらいだった。笑みを絶やさずに時計塔の下に立っているフェイトを不思議そうに見て行った。
 それから少しして、警察官に声を掛けられた。大人びた身形をしているものの、中身は十二歳の少女である。見ようによっては普通の小学生だ。補導されてしまっても 仕方がない。
 人を待っていると身振り手振りで話してみると、その警察官は学校には届け出ているのかと言った。
 反射的にしたと答えた。もちろんしていない。学校の名前も言ってしまった。
 確認を取ると、警察官は携帯電話で聖祥小学校に連絡を取った。短いやりとりの後、警察官は電話を切った。
 連絡は確かに行っている。ただ、小学生が昼間から公園に居るのはあまり褒められる事ではないから、以降は気をつけるように。そう言って、警察官は公園を出て行った。
 フェイトは母に感謝しながら、警察官の背中を見送った。何も言わずに出て来たというのに、義理の母は何もかもお見通しだったようだ。






 十二時五分前。
 辺りを見渡す行為もやめて、フェイトは直立不動の姿勢となっている。
 ここに来て破滅的に緊張して来た。背中に汗が流れ始めて、ワンピースが纏わりついて来る。
 視線は綺麗に揃えられた爪先を見詰めて放さない。
 ただいまという、ただ一言の台詞を何度も何度も頭の中で反復する。舌を噛まずに言えるかどうか凄まじく不安になって来た。
 聞こえてしまうぐらいに心臓の鼓動はうるさい。






 十二時。
 時計塔の時計は時間を知らせる電子音を鳴らす。
 俯いていた顔をゆっくりと上げて、辺りを見る。
 誰も居ない。
 何度か見渡して、腕時計を見て、さらにもう一度周囲を確認する。
 やはり誰も居ない。
 期待している人影は無い。

「十二時ピッタリだしね」

 ジャストに現れたら変に凄い。それに次元世界はそれぞれ平行して時間の流れが微妙に違う場合がある。遅れるとしたらその影響だろう。
 緊張と期待の最高潮を良くも悪くも通り過ぎた胸は、緩やかな坂を下るようにして落ち着いて行く。それに心地良さを感じながら、フェイトは次の瞬間にでも 現れるだろうクロノを待った。
 一分が過ぎ、二分が過ぎ、三分が過ぎた。
 五分が経ち、十分が経ち、三十分が経った。
 それでも、クロノは現れない。






 十三時。
 約束の時間から一時間が過ぎた。東から昇った陽が頭上を通り過ぎ、南に来た。
 徐々に不安になって来た。
 一度だけ時計塔から離れて、公園中を見て回って来たが、クロノはもちろん、通行人の影も無かった。
 淡い期待を胸にして、息を切らせて時計塔に戻って来ても誰も居ない。

「……遅いなぁ」

 再び時計塔を背にする。
 再会出来た時の言葉が増えてしまった。
 お帰りの後、不機嫌そうに遅いと言ってやろう。
 怒った自分を前にクロノがどんな反応をするか、フェイトは想像しながら待つ事にした。






 時間だけが過ぎて行った。
 十四時、十五時、十六時。あれだけ進むのが遅かった時計の針は、それが嘘だったかのように急ぎ足で時間を刻んで行く。
 頭上高くにあった陽が西に向かって傾き、人気が増え始めた。散歩を楽しむ住民が多く、学校を終えた子供達で賑やかになった。
 楽しそうに駆け回っている自分と同じ歳くらいの少年少女達。フェイトはそんな光景を羨ましそうに見詰めていた。
 胸にあるのは陰鬱な思いだけだった。
 本当なら、自分もあんな満面の笑みで時間を過ごしているはずだった。

「………」

 十二時から四時間も過ぎている。
 なのに彼は現れない。
 来る気配も無い。
 ずっと立ち続けている脚はズキズキと痛かった。






 十七時を回ると、昼間に訊ねて来た警察官が現れた。
 まだ来ないのかと問われたので、はい、と小さな声で答えた。
 顔を上げる元気も無かった。
 しばらくの間、警察官は考え込むような仕草を見せて、そうして駆け足で公園を出て行った。
 見送ろうともせず、フェイトは俯く。
 空しさだけが胸の中にあった。朝に感じていた世界が広がるような感覚なんてもう残っていない。
 爪先と土の地面を見詰め続けていた視界に、缶ジュースが入り込んで来た。
 驚いて顔を上げた。もしかしたらという儚い期待が胸を締め付けた。
 視線の先には朝見た警察官の顔があった。
 ずっと待ち続けているフェイトを不憫に思ったのか、彼は缶ジュースの差し入れを持って、フェイトの話し相手になってくれた。






 十八時。
 あちこちで常夜灯が明かりを灯し始めた。陽が堕ちるのが長くなりつつあるとは言っても、すでに周囲は暗くなっている。顔を上げれば星空の気配がした。
 フェイトは座り込み、膝を抱えるようにして缶ジュースを飲んでいた。警察官は横で座って、口数の少ないフェイトの話に耳を傾けていた。
 約束の時間を六時間も遅れている。口から出て来るのはさすがに不満が多かった。
 警察官は甲斐甲斐しく十二歳の少女の話を聞いていた。その上で話を合わせてくれた。
 そんな優しい彼も、そろそろ行かなくてはいけないらしい。立ち上がった警察官はフェイトに手を差し伸べてこう言った。
 もう来ないんじゃないか、家まで送ろうか。
 フェイトは、いいです、と即答した。
 警察官は、そうか、と言うと、後でまた見に来るかもしれないと言い残して公園を出て行った。
 残されたフェイトは、空になった缶ジュースをクズカゴに入れると、時計塔の下に戻って膝を抱える。






 それからどれくらい時間が経ったのか、フェイトは分からなかった。
 腕時計はもう見たくなかった。
 膝に埋めた顔はピクリともしない。泣き寝入りをした子供ように、フェイトは座り続ける。
 どうして来ないのだろう。
 どうして来てくれないのだろう。
 どうして帰って来てくれないのだろう。
 十二時に来るって言ったのに、もう夜になってしまった。
 何かあったのだろうか。
 それとも、彼が戻って来るという話そのものが嘘だったのだろうか。
 だが、この話はクロノに無期懲役という刑を言い渡した時空管理局最高責任者が直接教えてくれたのだ。偽りのはずがない。
 やはり何かあったのだ。
 だって、そうでもなければこんなに遅れるはずがない。

「……クロノ……」

 胸に大きな穴が空いてしまったかのようだった。
 心は空っぽになったかのように軽い。
 二年前のあの時のように。
 風が吹く。髪がざわめく。
 季節の上では夏だというのに、気温が下がって行くのが分かった。
 めかし込んだ服も、くたびれてしまった赤い靴も、整えた金色の髪も、 彼を迎える為に準備していた言葉も、全部が無益な苦労に終わってしまうのだろうか。

「もう……我慢なんて、出来ない……」

 あの知らせを聞いた時、我慢しなくてもいいんだと思った。後数日もすれば会えるという事実が、フェイトから自身の抑制力を奪っていた。
 今更待てるもんか。

「早く来て」

 徒労で終わらせて欲しくない。

「クロノ」

 胸に出来てしまった大きな空洞を埋めて欲しい。

「どうして来てくれないの」

 今すぐここに来て欲しい。

「どうして帰って来てくれないの」

 力いっぱい抱き締めて欲しい。

「嘘つき」

 耳元で名前を囁いて欲しい。
 フェイトは待ってると言った。
 帰って来たら、二人だけでどこかに遊びに行こうと約束をした。
 あの時の約束がずっと心の内にあった。宝物のようにフェイトはその約束を秘め続けていた。
 彼は約束を守ると言ってくれた。
 必ず守ると、だから待っていてくれと言った。

「今来てくれないと……破ったのと……同じだよ……」

 こんなに期待させて。
 こんなに想わせて。
 こんなに待たせて。
 恨み言ばかりが込み上げて来た。きっと何かあったのだと冷静な頭が妥当な可能性を訴えて来るが、感情が面白いぐらいに跳ね返してしまう。
 フェイトは顔を上げた。手の甲で両眼を擦る。流れようとしていた涙が潰れて頬に散った。
 立ち上がれると軽い眩暈を覚える。何時頃から座っていたか忘れたが、それなりに長時間地べたに座り続けていた。お尻の感覚が無い。脚がギクシャクと動く。
 スカートに付いた砂埃を手で払って、腕時計を覗いた。

「……十時……」

 ここに来てからすでに半日以上が経過していた。普通の待ち合わせなら、とっくの昔に家に帰っている頃だろう。
 フェイトも帰ろうと思った。これ以上待っても無駄だろう。クロノはもう帰って来ない。ここには現れない。
 なのに、まだ待とうと考えている自分を見つけてしまった。
 半日以上待たされているというのに、まだ待ち続けようというのか。

「―――」

 そんな自分に、フェイトは呆れなかった。
 待つ事しか出来ないのなら、ここで徹底的に待つ事を選ぼう。それでクロノが現れたら、思い切り文句を言ってやるのだ。
 うんと頷く。腹を括り、決意を固めて、フェイトは時計塔の前に立つ。
 常夜灯の明かりが眩しかった。ずっと俯いていたせいか、眼が暗闇に慣れてしまっていたようだ。
 ぼんやりとする視界を守ろうと、掌を翳して光を遮ろうとする。

「……?」

 こちらに近付いて来る脚が見えた。それはゆったりとした足取りで地面を照らす光の輪の中に入って来る。
 あの親切な警察官かと思ったが、靴が違った。
 リンディでもアルフでもない。エイミィも違う。
 常夜灯の光の中を歩く二本の脚は男性のものだった。
 低い男の声がした。

「遅れて済まない」

 聞いた事の無い声だ。だが、良く知る少年の面影を感じられる声だった。
 光を遮っていた掌を退かして、光に慣れた瞳で二本の脚を追う。
 誰か分からなかった。だが、それも一瞬の事だった。
 フェイトは何度も瞬きをした。見えている光景を本当に疑った。
 暗闇の向こうから現れたのは、クロノ・ハラオウンだった。






 すらりと伸びた背丈。広い肩幅。少年のあどけなさの抜けた表情。艶のある黒髪。
 二年間という期間がクロノという少年に与えた変化は、フェイトでさえ誰なのか分からないぐらいの身体的は成長だった。
 常夜灯の粗末な明かりの中で、彼は不器用にはにかんだ。

「迎えの巡航艦が遅れてしまって。連絡が出来なかった」
「………」
「久しぶりだな、フェイト。少し背が伸びたか?」
「………」
「フェイト?」

 腰を屈めるようにして顔を覗き込もうとするクロノ。
 すぐ近くにあれだけ会いたいと願ったヒトの顔がある。

「……遅い」

 それなのに、憮然としたフェイトの開口一言は文句だった。

「済まない。その、長距離用の通信機も」
「遅い」

 言い訳をしようとするクロノを遮る。そんな言葉なんて聞きたくなかったし、どうでも良かった。

「朝からずっと待ってた」
「………」
「八時くらいに来て、ずっとずっと……待ってた」
「……ごめん」
「遅い……遅過ぎ……だよ」

 彼を責める自分を止められない。
 眼の前に立って、でもそれ以上近付こうとしないクロノ。ただ、その両手は何度も動こうとして、その度に何かを恐れるように引っ込んでいた。
 抱くモノを見失った彼の大きな掌は開いたり閉じたりを繰り返している。そんな光景に悲しさを覚える。
 これだけの大遅刻をやっておいて、言葉だけなのか。映画の再会シーンのように、乱暴に抱き締めてくれてもいいのに。

「くろののばか」

 いつまで経っても伸びてこない彼の手に、フェイトの我慢も限界を迎える。
 そっと歩み寄り、身体を寄せる。広くなった胸板に耳を押し付けて、二年ぶりに彼の心音を聞く。

「いや、だからその」
「帰ろうかなって、さっき思ってたんだよ?」
「……一日中待っててくれたのか?」
「うん」
「学校はどうしたんだ。今日は平日のはずだろう」
「休んじゃった」
「どうして?」

 そんな鈍感な一言を聞いて、フェイトは安心した。
 外見は大人になっていても、中身は二年前のままだ。異性の気持ちに鈍感なクロノ・ハラオウンのままだ。
 そう思うと、凍り付いていた感情と衝動が一斉に動き出した。
 肩が震え始めた。喉の奥から嗚咽が込み上げて来る。額だけではなく、顔を胸に埋め、服を千切ってしまいそうな勢いで握り締める。

「ど、どうしたんだ?」

 うろたえるクロノに返す言葉は無い。フェイトは子供のように泣き喚いてしまわないように必死に自分を抑え付ける。ただ、そうすればする程に強烈な想いが後から後から湧き出て 来る。
 二年前のデバイス暴走事件は、フェイトの中では終わっていなかった。
 クロノが側に居なかったのだから。
 赤い瞳の奥に、友達や家族に見せていた吸い込まれてしまいそうな笑顔の裏に、いつも悲しさを秘めていた。
 事件が過去のモノになればなる程、彼と離れ離れになっている時間が長くなり、それが嫌だった。
 触れたら壊れてしまいそうな思い出が、心の中に残っている彼の温もりが、二年前のあの時から氷付けになって胸の奥底に横たわっていた。
 その氷が溶けて行く。
 驚いていたクロノは困ったように頬を掻いて、フェイトの小さな背中に手を伸ばした。

「……もうどこにも行かないから。ずっと側に居るから」

 ――悲しい記憶に惑わされる事はもう無くなるだろう。
 クロノはフェイトの左手に巻かれていた黒いリストバンドを外すと、その下に刻まれた大きな傷痕を掌で包み込む。
 治癒魔法の術式が紡がれて、常夜灯の明かりの中に紺碧の魔力光が溢れた。

「痛みは無いか?」

 答えようとしたが、もう無理だった。泣き出した胸は止められない。声を無理に出そうとすれば鼻声しか出ない。あまりにも情けないので我慢した。

「S2U、預かっててくれてありがとう」

 頷く事しか出来ない自分に腹が立った。

「皆は元気か? 何か変わった事は無かったか?」

 皆元気だ。変わった事は沢山あった。
 自分は執務官になった。なのはは戦技教導隊への移動が決まった。はやてには小さなリインフォースがやって来た。
 皆が皆、元気にやっている。
 手首の傷痕を消そうとしてくれている治癒魔法にどうしようもない温かみを感じる。彼が戻って来てくれた事を身体を通じて教えてくれている。
 変わる事の無かった温もり。それはフェイトにとって、永遠の魔法だ。

「クロノ」

 震える声で呼ぶ。

「何だ?」

 澄んだ声が返って来る。
 フェイトは言おうと決めていた言葉を紡いだ。

「――おかえり、クロノ――」

 感情の決壊がすぐそこにあった。
 唇を震わせる少女に、クロノは笑いかけて言った。

「――ただいま、フェイト――」






 フェイトのデバイス暴走事件は、この日、ようやく終わりを迎えた。





 Southern Cross fin






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 □ あとがき □
 え〜。ひとまず近い内に統括あとがきを書きます。今はただこの一言を。
 ありがとうございました。








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