根性戦記ラジカルアストラButlerS

序:自由待機プレイ ♯.8







 自由待機解除後は二日間の休暇。
 新人のみで構成された為に試験運用中だった第四分隊もそれなりに板について来た為、第三分隊のバックアップから外れて正式稼動状態となった。結果、JS事件以降実施されていた交代制二十四時間勤務に緩やかながらゆとりが生まれたのだ。
 そこで、常時フル稼働を強いられていた第一分隊と第三分隊に久方ぶりの休暇が支給される事となった。それも連休である。野良化したガジェット達がここぞろばかりに編隊を組んで大規模な攻勢行動に出れば帳消しにされてしまう、何とも儚い休暇ではあったが。
 自由待機後の二連休なので、事件さえ発生しなければ事実上の三連休に等しい。これで浮き足立たない方がどうかしているだろう。第一分隊の隊員達はにわかに活気付いて、第四分隊への引き継ぎ作業中にも締まりのない笑顔がそこかしこで生まれていた。
 後方支援に徹する事務屋には分からない悩みであるが、何せ前線分隊である。直接的な荒事処理には神経も体力も消耗を強いられるし、日々の訓練や他部隊との合同模擬戦、哨戒任務、報告書作成から始まる事務作業も、後方支援部隊に任せられない実働部隊専用のデスクワークは山積する。半勤務に等しい自由待機では実感できない完璧なる休日が二日続きなのだから、ニヤニヤするなという方が無粋で酷というものだった。
 本来なら、アストラも部下達と同様に頬を弛緩させまくって、愉しい連休をどう過ごすか、あれこれ思慮を巡らせているはずだった。
 事実、彼自身もそうするつもりだった。今以て行方不明のジュエルシード捜索任務と例の人型質量兵器事件、その二つを同時並行で扱う対策本部の運用で、ここ二週間ほどは激務が続いた為に録画したまま放置しているカートゥーン向けアニメーションの視聴で自由待機を消化しようと、眠気覚ましのブラック珈琲で喉を潤しながら目論んでいたのだ。積みゲーは数えるのも馬鹿らしい量で、積みプラモはいつ雪崩を起こすか分からない極めて危険な状態に陥っている。これを安全に恙無く切り崩す使命が、アストラ・ガレリアン准尉にはあった。
 ちなみに例の対策本部の方は本局から出向中の敏腕女性執務官が三日間くらい一人でも問題無いです、と心強い答えを返してくれたので、安心して休暇に入れる状態だったのだけれども。

「アストラさん、おかえりなさーい!」

 初々しい第四分隊の分隊長に業務引き継ぎを終えて、第一分隊の共同オフィスへと戻って来たアストラを待っていたのは、喜色満面の副官であった。
 空調が故障している為、換気を目的にすべての窓硝子と扉が開放されているオフィスには、彼女の他には誰一人としていなかった。頬を撫でてゆく生暖かい風に不愉快が極まる。
 薄情な部下共に舌打ちをしたアストラは、尻尾を振る仔犬然とする副官フェベル・テーターには眼もくれず、オフィス奥の分隊長室へ大股で入る。相変わらず猥雑で雑多な様相を維持し続けている牙城を一望し、溜息を一つ。背後から突き刺さる期待の眼差しが肩に見えない重圧を与えてくれる。
 一日の自由待機期間も含めれば三連休。この時期、金よりも遙かに貴重な休みを、自分は背後でそわそわと身じろぎをしている童顔副官と一緒に過ごす事態となっている。
 引き継ぎ業務に向かう直前、部下の一人がぼそりと呟いていた言葉を思い出す。

「リア充は爆発しろ、か」
「? アストラさんってリア充なんですか?」
「知るか。この他人評価を俺はどう解釈し理解し咀嚼すればいいのか困惑している真っ最中だってーの」
「とてもそういう風には見えませんけど。引き継ぎ、何か問題ありましたか?」

 フェベルが横合いからひょいっと顔を窺って来る。小柄な身体を曲げ、腰の後ろで手を繋ぎ、上目遣いにした期待一色の瞳をくりくりと動かす。本物の仔犬にも負けない愛嬌のある仕草。
 これを確信犯でやっていれば本気の頭突きで手荒に追い払えるものを。後方支援組の技術課にアンスウェラーを預けて来たのは迂闊な失敗だった。一言でも余計な発言をしてくれれば、それを盾にこの場を凌ぐ事だってできたのに。
 誰よりも何よりも頼りになるこの幼馴染の副官は、今の自分にとって劇薬でしかない。何度嗅いでも慣れないその甘い匂いも、それに華を添える安っぽい香水も、美麗な黒髪の隙間から時々見える白亜のうなじも、十代前半に誤解されるのが標準的な童顔も、二次性徴期が欠如しているとしか思えないスレンダーな身体も、すべてが混在した結果、恐るべき淫美な艶めかしさに昇華されて、アストラの理性に猛攻撃を仕掛けて来る。
 これを撃破するのが毎度毎度骨を折るのだけれど、あの人型質量兵器との一戦以降、正確にはこの陸士部隊に長期出向中の医務官の忠告からというのも、素直になれと甘く囁く本能を説き伏せるのにとんでもない心労を感じるようになっている。
 原因は、思案せずとも分かる事だ。

「分かっててやってたんじゃねーか、俺」
「アストラさんがお馬鹿なのは、多分アストラさんよりも私が深く理解してますよ?」

 ぼやきのような独り言に、フェベルは律儀に返事をして小首を傾げてみせる。無邪気で無防備で可愛らしい反応。整った睫毛の下で、大きな双眸が悪戯っぽく瞬く。
 何かがどうにかなってしまう訳の分からない衝動を、アストラは眉一つ動かさずに叩き潰して。掌で彼女の頭を乱暴に撫でた。

「そーかい。そりゃ頼りになるな、幼馴染」

 柄にも無く弱気になっている。そんな自分を誤魔化す為にも、アストラはくすぐったそうに身じろぎをする幼馴染と戯れる。
 この休日は独りで過ごすつもりだった。貯蓄が進む一方の趣味嗜好に費やして、鬱屈している心中を晴らすつもりだった。さもなければ、得体の知れない不安に喰われてしまいそうだったから。
 アンスウェラーもいるのだから、正確には独りではない。けれど、事態を熟知している彼ならば何の気兼ねも無い。そもそも、長年の鋼の相棒に気兼ねなんて、どんな事が起ころうとしないだろう。
 でも、フェベル・テーターは違うのだ。
 彼女に連休の予定を聞かれた時、いつものように馬鹿で阿呆な話をして煙に巻けば良かったのに。どうしてかそれができなかった。山積みになっているゲームやプラモを指差して、ぶっきらぼうにこれの消化を答えたら、なら私もご一緒しますと、金よりも貴重な休日を棒に振るような提案を躊躇無くして来た。
 その提案を無碍にできずに許してしまった自分が、今はとにかく恨めしい。やっぱりやめるわ、と言えばフェベルは文句を言いつつ予定を変更してくれるだろうが、彼女の多大な期待を裏切って、後ろ足で砂をかけるような真似をしてしまうに違いない。
 それは、したくなかった。
 何よりも──もう一人の自分が、今はフェベルが必要だと執拗に訴えていたから。

「こっちの方は高町の防御魔法並みの自信があったんだけどなぁ」
「んー。確かにアストラさんの胸って凄く硬いですよね。何度か試したんですけど、寝心地悪かったです」
「……いつ試したんだ、てめぇ」
「さぁ?」

 にかっと笑ったフェベルが掌の下から身を翻す。軽やかなステップで共同オフィス内を闊歩して、終着地点の出入り口に到達する。

「私達が最終です。戸締まりして、私達も早くオフシフトに入りましょう?」

 今日は珍しく主導権をフェベルに握られているようだ。けれど悔しさなんて感じる事も無く。奇妙な心地良さを味わいながら、アストラは戸締まりを済ませて、彼女と連れ立って前線第一分隊共同オフィスを後にした。



 ☆



 局員寮に向かう途中、技術課に立ち寄ってアンスウェラーの状態を聞いてみたが、日頃の扱いが乱暴過ぎる為に各種構成材や消耗品の劣化が顕著で、オーバーホールをしています、という寝耳に水な事後報告を聞かされた。自由待機だろうが完全休暇だろうが、事件が発生すれば現場に駆り出されるのは必至な身である。丸腰の陸戦魔導師に一体何をしろというのだろうか。

「ガレリアンは頑丈だし、ポジションはフロントアタッカーでしょ? だったら順当に盾じゃないかな?」
「我が陸士108部隊が誇る優秀な事務官、エルよ。てめーは攻撃手段もねー哀れな隊員に最前線が務まると思ってんのか?」
「えー。ガレリアンなら大丈夫じゃないかな? クイントさんに鍛えられたでしょ?」
「そりゃもう情熱的に一日一回リボルクラッシュされてたよ! マジあの人自分の歳省みろっての!」
「何というお前が言うな。それはさておいて、文句なら技術課に直接言ってよ。私は言伝を頼まれただけなんだから。ね、L2U?」
『yes』

 盲目を特殊なインテリジェントデバイスで補っている優秀な女性事務官は不満そうに唇を尖らせた。胸元で揺れている小さな金属カードのようなデバイスも、インジケータを明滅させて同意する。
 彼女達の言っている事には大変に一理があるので、アストラは矛を収めながらも、事件起こって出動して怪我したらマジで恨む、という趣旨の言伝を託して隊舎内の中央オフィスを出た。何とも勝手な連中だと荒ぶる不満を心中で愚痴る。アンスウェラーが聞けば、盲目の事務官と同様の意見を賜るだろう。お前が言うな。
 局員寮の部屋に戻って着替えを済ませると、先に帰らせていたフェベルが身軽な私服姿で現れたので、早速当初のプランを実行に移す事にした。
 まずはネット通販から届いた段ボールのままで積み重ねられて塔を築いている物品を、片っ端から開封してゆく。管理人の寮母からゴミ袋を幾つか頂戴して、千切っては投げ千切っては投げの大混戦。

「本当に投げるなこの野郎! ちょお! 俺のフィギュアーツのG3−Xがぁあ! ディエンドの遺影フォームがぁ! てめぇ遺影フォームはweb限定品なんだぞ分かってんのかぁ!?」
「別にいいじゃないですか、箱に入ってるんですから。壊れませんよ」
「箱が痛むだろ、箱がぁ! お前人のだと思って適当に扱うな畜生!」
「人の車を痛車にした挙げ句、壊したのは誰ですか?」
「トドメ刺したのはあの不細工な質量兵器だろうがってお前だから投げるなぁ! ああああああああああああずにゃんがぁあああああああああ! アルターの中野梓がぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!」
「アストラさん、うるさいです」
「ああうるさいよ! 今俺の魂が猛々しく吼えろと訴えてんだよ馬鹿野郎!」
「ところで、私ってばまだアストラさんの趣味ってやっぱり良く分かりません。このフィギュアの女の子、小さくて可愛いですけど、アストラさんって本当は色々と大きい方が良かったんじゃなかったですか?」
「そこだけ聞くと何だか物凄く語弊を生みそうな発言だな。あずにゃん可愛いな天使か。胸が熱くならざるを得ない」
「……私は?」
「ゼルエル」
「……最強の拒絶タイプ」
「名前だけなら天使だぞ。あのもふもふ感が一部では可愛い評判だ。そして俺はその一部の人間だ」
「新劇場版だと色々とシュールだったんですけど……あ、で、でも……えっと、アストラさんって、そのもふもふ感が可愛いと思える一部の人だったんですか? それだったら私の事も」
「おいそこのカッター取ってくれ! 秋山澪を解放する! このストライプなニーソに包まれた太腿に挟まれたい挟みたい! さぁカッターを貸しなさい開けられないからおおおおおおおおおおおおお刃を出したままカッターを投げるな馬鹿者ぉ!」

 そこそこの綺麗さを維持していたアストラの部屋は、瞬く間に残骸と化した段ボールと梱包材とその他細かなゴミに侵略されてゆく。七十リットルのゴミ袋は瞬く間に肥大化して総数四つを計上した。

「お前さ。割と前にどこぞの金髪執務官みたいに嫉妬深くないから安心しろって言ってなかったっけ? 俺の戸惑いが有頂天なんだが?」
「こーいうのに負けるのは大変不本意です。っていうか、アストラさんだってどこかの提督みたいに鈍感じゃないから良かったなって言ってましたよね? 私のモヤモヤ感がクライマックスなんですけど?」

 いっぱいになったゴミ袋を処理した二人は、ついでだったので室内も片付ける。開封されたフィギュアのスタンドに飾り終えると、本来の広々とした独身局員専用寮の一室が現れた。ちなみにこの寮は所属によって階層が分かれ、さらに部屋の内装等も階級で変化する。隊内外でもあらゆる意味で有名なアストラは、これでも准陸尉で分隊長を務めているそこそこの局員である為、室内は広い上に簡易ユニットバス等が完備されている上等なものだった。もっとも、アストラは足を伸ばして利用できる共同浴場をもっぱら利用している。
 そんな訳で、この部屋のユニットバスを使っているのは、

「汗も沢山掻いたちゃったので、シャワー借りますね」
「世の中等価交換が原則だ。さぁ飯を奢れ」
「何でいつもそういう高圧的且つ藪から棒なんですか。はいはい、じゃ近くのファミレスでいいですか? っていうか、お給料はアストラさんの方がずっと多いんですから、普通逆じゃありません? ほら、部下と上司って立場からも」
「シャワー代金だってーの」
「後片付けが面倒だから使わない癖に」

 憎まれ口を叩いたフェベルは、小さく舌を出して、ぷいっと背を向ける。着替え等を詰め込んだバックを肩に引っ掛けて部屋入り口近くのユニットバスの扉まで駆けてゆくと、くるりと踵を返してアストラを一瞥した。

「覗いちゃ駄目ですよ?」

 頬を薄い朱で色付かせて、童顔副官がユニットバスの扉の向こう側に消える。
 独り残されたアストラはわしゃわしゃと後頭部を掻き、溜息をつく。換気目的で窓を開けて作業していた為にアストラだって全身汗だくだ。着替えたばかりのシャツが肌に張り付いて不快だったが、共同浴場が使えるのは夕方以降だ。フェベルが出て来た後に使うのも悪くない。

「あいつが使った後かー」

 これまで何度もそういう事もあった。その度にもう二度とあの幼馴染が使った後はユニットバスに入るまいと硬く心に誓ったのだけれども。その誓いは更新されるだけで、実行に移された試しが無い。駄目だやめよう危険だ精神的に拷問だと自身に言い聞かせながら、いつも最終的には使ってしまう。
 別にフェベルのユニットバスの使い方が極端に悪い訳ではない。むしろ彼女は大変に几帳面な性格なので、使う前よりずっと綺麗にしてくれる。便座まで磨いてくれるのだから大したものだ。
 問題は彼女の行動ではなくて、彼女自身である。ユニットバスは極めて機密性の高い小さな空間だ。換気扇が無ければ湿気が籠もってカビが大手を振って大繁殖する。そんな場所に異性の甘く切なく儚い香りが濃密に残され充満するのだ。
 次に使うアストラとしては、素っ裸でオルセアの紛争地区に特攻する気分を味わう。
 ユニットバスから、壁越しに水が流れる音が聞こえて来る。水流の音は、今この限られた空間の中であの童顔幼馴染が何をしているのかを推測させて来る。

「耳の良さが命取りだなって、昔ジオン軍の変わった髪型のおっさん軍人が言ってたな。あ、違う。眼か」

 ぼんやり天井を眺めて呟いて。アストラは二十四時間勤務後の疲労困憊の身体を動かす。冷蔵庫からミネラルウォーター──フェベルから炭酸飲料ばかりは身体に毒だからと丸ごと変えられた──を引っ張り出して一口煽る。
 思い出したように睡魔が襲って来た。ベッドに背中を預けるようにして床に座ると、瞼の重さに軽口を叩く余裕も無くなった。
 体力が落ちているのは間違いない。二十四時間勤務解除後の自由待機は、多くの者が寮の自室で休む。休むのも仕事の内であって、体力の余っている者は隊舎に留まってやり残したデスクワークの消化や自己訓練に汗を流すのだ。
 アストラは自室で休む派である。いや、休むというよりも遊ぶ派か。急ぎのデスクワークが無い限り、フェベルと一緒にグダグダと時間を消費する。無論、疲労が残らない範囲で休みもする。
 その疲労が、抜けなくなって来た。
 例の美術館で、リーンとあの人型質量兵器と一戦を交えて以来、特に顕著だ。仕事中に居眠りしてしまうのは以前からあったが、慢性疲労でそうなってしまう事態は皆無だった。それが、最近は多発している。

「ヤブ医者の言う通り、かもなぁ」

 自分が今起きているのか寝ているのか。その判断もできない。混濁した意識は天井を見上げている視界を曖昧にし、ぼんやりとした薄弱な世界を映し始める。
 こんな蒸し暑い中でも寝られるもんだなぁと、至極どうでも良い感想を抱きながら、アストラは眠りに落ちた。



 ☆



 意識が揺れている。眠っているのか起きているのか判然としない。すべてが混濁している感覚。誰かの声が耳の側で聞こえる。囁くように。豪奢な砂糖菓子のような、甘い蜂蜜のような、そんな声音。

「アストラさん」

 柔らかな重みを感じる。力加減を間違えれば誤って潰してしまいそうな感触。気持ちの良い匂いだけが明瞭に分かる。

「あーすーとーらーさーん」
「──あんだよ」

 口を開けても呂律が回っていない。不躾に言葉を返してしまう。でも大丈夫だろうと思った。今自分に乗りかかっている声の主には、きっとこうした雑な態度でも構わない。

「シャワー空きましたよ。汗臭いから早く入って下さい」
「──眠ぃ。俺の分も、入っとけ」
「ジャイアンみたいな無茶言わないで下さいよ。あーもー本当に汗臭いですよー」
「──別にいいや」
「良くないです。ただでさえ汚い部屋なんですから、衛生面は注意しないと、アストラさんの大嫌いなゴキにゃんがまた湧いて来ますよ?」
「──そりゃ面倒だし、嫌だなぁ。つーかゴキにゃんとか喧嘩売ってんのヴぁー」
「はいはい涎垂れてますよー。じゃ、シャワー浴びて来て下さい。もしくは共同浴場。今寝ると風邪引いちゃいますよー」

 何とも煩わしい。本当に、こいつはいつもいつも。
 感情が腕を動かす。意識も視界も濃霧の中を漂っているようなものだったが、身体は幾分素直に動いてくれた。ひゃっと耳に柔らかく湿った何かが増えて、上半身にかかっていた気持ちの良い感触の重みが増した。それはそうだ。自分がその重みを片腕で抱き締めて、身体に寄せたのだから。

「どーだー汗臭いだろー」
「どこの酔っぱらいの中年さんなんですかもー! ていうか寝ぼけてる演技ですかそれ! 起きて下さいよぉ!」

 人肌よりも確実な熱を帯びている湿った感触が、首筋や胸元に何度も接触する。その度に鬱陶しい声は鳴りを潜める。掌で頭らしき物を掴んで掻き混ぜるようにわしゃわしゃしてやると、悲鳴は明確な抗議に変わった。

「やぁー! ちょ、アストラさんやめて下さいもー! アストラさんは私の髪に恨みでもあるんですかぁ!? こんな風に髪の毛クシャクシャにされるの何回目だと思ってるんですか!?」
「しーらね。いーじゃねーか。おまえのかみ、さわっててきもちいいんだしー」

 指を伝う感触は最高だ。柔和なはずなのに、けれど一本一本が確実に分かる木目の細やかさが秘められている。流麗な髪質。岩のような肌に覆われた自分の掌には、あまりにももったいない髪。
 びくん、と胸の上で何かが揺れる。最後の抵抗のような儚い抵抗は完全に潰える。呻くように、呪うように、けれど、嬉しそうに、泣きそうに、彼女が囁く。

「──ひ、きょう、もの」

 誰が卑怯者だ、誰が。
 混濁した意識が、混濁したまま、器用な事にムキになる。髪を梳いていた指を下に移動、鼻や頬を乱暴に撫で回して、細い顎を掌で弄ぶ。じゃれついて来た仔犬に応えてやるような感覚。

「ほーれほれほれほれ」
「んにゃ……! い、いい加減起きて、くあはぁい……!」
「だがことわる」

 徐々に頭の中を不法占拠していた濃霧が晴れてゆく。意識が冴え、身体の奥底に沈殿している疲労感が感じられて気分が重くなるが、腕の中でもがいている心地良い温もりが鬱屈とした情諸を振り払ってくれる。
 何かが込み上げて来る。不可思議で暖かな感情。胸を締め付ける切ない甘み。優しいのに凶暴な感じた事の無い衝動。
 物の輪郭をくっきりと捉えた視界が胸元を見遣る。
 大きな瞳の端に涙を溜めて頬を上気させた副官が、あうあうと喘いでいた。

「……エロくねー。減点百」
「……どうせ色気なんて無いですよ」
「黒タイツはものすげー艶っぽさがあって好きだけど」
「サラリと変態発言しないで下さい。っていうかですね、力緩めて下さい、苦しい上に汗臭いですもー」
「へーへー」

 ずっと抱き締めていたい衝動を、アストラは閉まらない返事をしながら説き伏せる。無理強いをするつもりは無い。彼女なら──と半ば確信めいた感覚もあるけれど、それも男側からの身勝手な希望に過ぎない。
 それに。自分とフェベルは、彼氏と彼女ではない。恋人ではない。友達以上恋人未満。全幅の信頼を寄せ合う上司と部下。幼馴染。まぁそういう関係なのだから。
 ところが。解放されたフェベルはアストラの上で身を丸めたまま動こうとしない。もじもじと身じろぎをして、胸の前に両腕を寄せ、抱えるように曲げた脚を擦り合わせている。
 そんな胎児のような姿勢で、彼女は濡れた瞳をアストラへ向け、唇をもごもごさせる。その姿は嗜虐心を刺激するには充分過ぎたので、期待を寄せられている気配を感じながら、何もせずに大きな欠伸をした。
 空けられた窓から気持ちの良い風が吹き込んで来る。少し湿り気を帯びているのは、梅雨が近付いている証拠だった。今年は猛暑になると天気予報で言っていたのを思い出していると、フェベルが動いた。
 意志を固めたようにぐっと双眸を鋭くし、緊張で震える手をアストラの肩にやって、迫るように身を乗り出した。
 鼻先が掠め、前髪が触れ合う距離。潤った唇が、すぐそこで小さく動いている。今まで何度も体験して来た、彼女との超至近距離接近。それなのに、フェベルは下を向いている。いつもの上目遣いは無い。

「……友達以上恋人未満でも、私は、満足してた部分が、あったんです」

 心臓が早鐘を打つ。

「ちゅーするか」

 誤魔化すように笑う。

「も、もっと良い言い方はないんですか。いい加減ちゃんと起きて下さい」

 宵闇のカーテンのように揺れる前髪の隙間から、恨めしそうな眼が覗く。赤い頬も、同じ色になっている耳も、見えてしまう。
 凶暴な衝動に火が灯る。何か得体の知れない暴力的な感情が出口を求めて腹の底で吼えている。長年の友達以上恋人未満の関係であった彼女を貪れと脅迫して来る。

「起きてるって。だから言い直せる」
「な、なんですか?」
「キスするか」

 黒い情諸には蓋をする。
 狼なのに羊の皮をかぶる。

「……じゅ……順序が、違います……。私、まだ好きだとか、言われてません」
「俺も聞いてない」
「そ、そういうのは男の人から言うものです」
「俺に何を期待してんだ、お前は」
「い……いいじゃ、ないですか。これでも女の子なんです」
「もう子って歳じゃねーだろ、二十歳。見た目はともかくな」
「……私の、どこが……良いんですか?」

 そんなものは決まっている。

「全部」
「……何で、すか……もう、そんなの、納得なんて」
「お前は? お前は俺のどこがいいだ?」
「え、っと………」

 うつむいていた顔がさらに下がってゆく。
 その表情が完全に隠蔽されてしまう前に、アストラは手を伸ばす。両の頬を支えて持ち上げるようにフェベルの顔に手を這わせ、額と額をこつんとぶつける。
 何だかとてつもなくらしくない事をやっている。そうした自覚は勿論あるけれど、だからといってやめるつもりは無かった。
 もう逃げ場所なんて無いフェベルは、緩んでいた熱い頬を必死に引き締めようとして、でもできなくて、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。鼻を啜って、咳込んで、ぎゅっと眼を瞑る。掌に伝わる彼女の体温は燃えているかのように熱い。

「私も、全部、です。一番好きなところは、ありますけど。教えて、あげません」
「ケチ。じゃキスしてやんね」
「い、いいですもん。こっちからしますから」

 眉尻を上げて勇ましく宣言をしたフェベルが、身体をジタバタさせるが、顔を両側から挟み込んでいるアストラの呂力からどうしても逃れられない。

「ぷぷぅー! ほれほれ。貴様の腕力じゃ無理だ」
「うぐぅぅぅぅ〜! じゃもういいですバカー!」

 そのまま喚くように泣き始めるフェベル。
 調子に乗り過ぎたと反省しつつ、この至近距離で彼女の号泣は聴覚に多大な損傷を与えて来る。アストラは自らの耳を護るという大義名分を振り翳して、彼女の唇を自分のそれで塞いだ。
 窓から聞こえて来る街の生活音に耳を傾ける。鼓膜は無事だった。
 少しして、解放してやる。とろんと夢心地な瞳が視界の大半を埋めた。

「……襲われて、ますよね、私」
「襲ってるな、俺」
「……アンスウェラーさんがいなくて、良かったです」
「何を言うか。俺にはもう一本のアンスウェラーがあるぞ」
「……っ! さ、最低です! 雰囲気を考えて下さい雰囲気を! ああああもう! 何でこんな人好きになったのかなぁ……!」
「じゃ俺風呂入って来るわ」
「も、もういいですよそのままで!」
「汗臭いだろうが。散々文句言ってた癖に」
「……アストラさんのは、別にいいです!」
「変態だな」
「自分を棚に上げて何を言うんですか!」
「しかし、こんな真っ昼間から自由待機中にか」
「……今更何を常識人みたいな事言ってるんですか」
「違いない」

 苦笑したアストラは、溜息をついて、咳払いをし、

「好きだ、フェベル」
「……私も、小さな頃から、ずっと好きでした。アストラさん」





 Continues.










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