魔法少女リリカルなのは SS

二人きり ♯.3







 膝上は未だにフェイトという幼い少女に占拠され、膠着状態が続いている。執務官という職業柄、同じ姿勢を何時間も保つ事を強制される事が多い――それだけ多くの デスクワークを抱えている――が、これほどの緊張状態に晒されてというのは、あまり類を見ない。黙秘を続ける厳つい凶悪犯罪者の尋問に立ち会った時でも、このよ うな神経が紙ヤスリで削られるような苦境を味わう事は無かった。
 そんな中、不意にクロノは違和感を覚える。
 助け出した時には気付かなかったが、フェイトの身体には数多の擦り傷があった。Tシャツとバスタオルの二枚だけという、十歳の年齢を忘れさせるような劣情的 な身形のせいか、肘や膝にある赤い傷痕がとても目立っていた。
 緊張で水分の飛んでしまった口は、言葉を話そうとすると粘着いて、妙な不快感を覚えてしまう。

「フェイト、どうしたんだ、その傷」

 夢心地だったフェイトの表情が瞬間的な引き攣りを見せた。ぴくんと跳ねたように動いた肩で、彼女が何故か動揺しているのが分かった。

「学校で転んだのか?」

 それにしてはあちこちに傷がある。運動神経の良いフェイトが、学校で不注意から二度も三度も転ぶはずもない。

「体育の授業か?」
「……も、黙秘してもいい……?」

 許しを請うような声音。
 クロノは素直に困惑する。怪我の理由を教えてくれないなんて、一体どういう事だ。この子に限ってやましい事をするはずが無い。ならと、そこまで考えた時、 一つの結論が脳の片隅から掘り出された。

「まさかフェイト、いじめ……」
「ち、違うって!」

 身を起こすフェイト。小さく端正な顔には、困り果てた感情が露になっている。それと同時に、首袖の奥にキャミソールも何も付けていない胸が見えた。白くて傷 一つ無い肌理細やかな肌。わずかな二つの膨らみと、その赤い頂上もバッチリと眼に焼きついてしまった。
 首をへし折らんばかりに横に向ける。事実、首の骨がパキパキどころが、ベキベキと、明らかに普通では耳に出来ない歪な悲鳴を上げている。ついでに、体内中の 水分がまとめてスッ飛んでしまいかねない勢いで脂汗が額に滲んだ。
 恐怖に類似する背徳感と罪悪感が湧き起こって来た。

「ク……クロノ……?」
「な……なんでも……ない」

 水分と一緒に感情まで流れ出てしまったらしい。ストレージデバイスの電子音声も真っ青な無感情っぷりで答えた。
 この子は今、自分がどれだけ無防備な姿を晒しているのか自覚しているのか? 恨めしいまでにクロノはそう思う。もっとも、不可抗力とは言え、そんな格好をさせたのは クロノ以外の誰でもないのだが。
 沈黙。
 そろそろ着替えてくれと、舌を噛まないように何度も心中で反復練習をしていると、先にフェイトが行動に出てくれた。
 何も履いていないお尻で、『ぺたっ』と廊下に座る。膝を折った脚を左右に開いたその姿は、続に言う『ぺた座り』だ。鍛えられた白い太股がぶかぶかのTシャツの裾からはみ出て、 廊下の柔和な明かりに晒された。
 はらりとバスタオルが横に転がる。同時にクロノの唾を飲み込む生々しい音。

「……自転車の……練習をしてたの……?」
「じ……自転車……?」

 予期せぬ告白に、クロノは眼を瞬かせた。

「自転車って言うと、あの自転車か?」
「……うん」
「……乗れないのか、君が?」
「の、乗れるよ! ほ、補助輪付ければ……だけど」

 真っ赤になって怒られるが、クロノはとても信じられなかった。
 フェイトの運動神経は、同年代の戦闘魔導師というカテゴリーで見ても図抜けている。バランス感覚も驚嘆するレベルだ。
 そんな彼女が、まさか自転車を満足に運転出来ないなんて。確かにコツは必要だが、天性の運動神経とバランス感覚を持つフェイトなら一発で乗り越せて普通のはずだ。

「……本当に……乗れないのか?」

 馬鹿にしているつもりは、もちろんだが無かった。あくまでも確認の為である。
 それなのに、フェイトは赤い双眸に涙を溜め始めたのだ。その上、肩を震わせた。その震えは、即座に身体全体に循環する。
 下唇を噛んだ義理の妹は、今にも大お泣きしてしまいそうだった。

「……乗れないと……だめ?」

 何が駄目なのか、クロノには全く検討もつかない。もうろく気味に錯乱する頭で必死に言い訳を考案する。

「ひ、人には得手不得手がある! 自転車なんか乗れなくったって、飛行魔法がある! 何の問題もない!」
「……でも……こっちだと、私ぐらいの歳の子は皆乗れるもん」
「人は人、自分は自分だ。他人と比較して自分を卑下するのはやめろ。君の悪い所だぞ」
「う……ごめんなさい」
「わ、分かってくれれば、それでいい……」

 憮然と言葉を切って、クロノは彼女から身体を逸らした。その強靭な意思と精神とは裏腹に、彼の身体は思春期という人間なら誰しもが通る人としての性に弄ばれ、 素直に十歳の少女のあられもない無防備な姿を眼で追おうとしていた。その制御に全精神力を傾ける。
 やめろクロノ。一体何を考えている。執務官とあろう者が、妹になんて破廉恥な感情を抱いているのだ――!
 フェイトはじっとしている。紅に染めた頬のまま、身じろぎするばかりだ。何か言いたげだが、今のクロノに察する事など不可能である。
 この危険過ぎる状況を一刻も早く打破しなければいけない。これは最優先事項だ。如何なる事柄よりも優先される。

「フェイト」
「は、はい」
「自転車、僕で良ければ教えようか?」

 そんな提案をしてみた。

「……クロノ、自転車乗れるの?」

 本気で訝しむ眼差し。

「これでも一通りの運転免許は陸士訓練校で取得済みだ。自転車はこっちでたまに乗っていたし、自動二輪だって一応運転出来るぞ?」

 免許資格の類は所持しているだけだ。必要とされた場面は今までもほとんど無い。

「自転車にはコツが入るんだ。それさえ掴めば君なら余裕で乗りこなせるはずだぞ」
「アリサにも同じ事を言われたんだけど……その、コツっていうのが分からなくて」
「怖いのか?」

 飛行魔法を行使して自由に飛翔出来る戦闘魔導師にとって、自分以外の、しかもああした無機物に身を任せるのは、とてつもない不安を覚えるものだ。クロノも そうだったのだ。免許資格取得の際に最も苦戦したのは、そうした一種の恐怖心との戦いである。
 案の定、フェイトもそうだったらしい。彼女は長らく口許をきゅっと結んでいたが、時期に観念した。

「……うん。何か、凄く不安なんだ」
「まぁ、僕もそうだったからな。魔導師はほとんどそうだろう」
「クロノはすぐに乗れるようになったの?」
「ああ、問題無かった。自動二輪の時は本当にしんどかったけどね」

 リーゼ姉妹達との飽くなき死闘の日々を回想して、クロノは慄然とする。あんな地獄は二度と御免だ。

「今なら時間も遅いし、外には人も居ない。マンションの駐車場って場所もある。練習するにはそこそこ条件が揃っていると思うが?」
「い、今からするの……?」
「僕は明日が休みだから、別に明日でも構わない。そうなると、近所の子供達に練習している所を見られるぞ?」

 冗談っぽく言ってやると、フェイトはさらに顔を赤くした。

「……クロノが見てくれるなら……練習、しようかな……」
「ああ。僕で良ければね。じゃあフェイト、早く着替えてくれ」

 ようやく最初の目的を果たせたので、クロノは内心で安堵の溜め息をついた。



 ☆



 常夜灯の明かりがポツリポツリと浮かぶ駐車場は、マンションの裏側になった。この時刻にもなると、住民の自動車でほとんどの空間が埋め尽くされている。
 二人は入り口付近の開いた場所で夜の特訓を始める事にした。
 Tシャツにスパッツという身軽な出で立ちで、フェイトは屈伸運動をしている。その横顔は凛と引き締まり、真剣そのものだ。ちなみに、Tシャツはクロノの 三枚千円の安物のままで、返却する素振りを見せない。下着はちゃんと着けたと言っているものの、ダラリと肌蹴気味の胸元には艶があって、クロノはシャツを返してくれとは何故か言い出せ なかった。
 駐輪所からフェイト用の自転車を引っ張り出して来る。購入するだけして、ほとんど乗られていなかった真新しいはずの車体には、沢山の擦り傷があった。どうやら、 怪我をしたのはフェイトだけではないらしい。

「取り合えず乗ってみてくれ」
「う、うん」

 言われるまま、フェイトはハンドルを握ってサドルに跨る。スタンドは出されているので、ただ跨っているだけの姿だ。とてつもなく間抜けである。

「怖いか?」
「え?」
「自転車に乗ると大抵はいつもより視界が少し上がるものだ。平時より高い視点で、尚且つ自分の意思が限られた所にしか反映されない乗り物。魔導師じゃないこちら 側の人間でも、普通は怖がるさ。大なり小なりね」
「そう……なのかな」
「僕の持論だ、考えの一つにしてくれればいい。それで、怖いか?」

 フェイトは難しそうに頬を硬くして、前を向いた。彼女の視界の先には、いつもよりもわずかに高い世界が広がっている。
 常夜灯に照らされた車道が夜の住宅街の中を伸びている。

「大丈夫」

 笑顔でフェイトが言った。

「よし、なら実際に走ってみるか」
「それは……ちょっと怖いかも」
「どれくらい転んだんだ?」
「……黙秘します……」

 俯いて口を閉ざしてしまうフェイト。所在なげにTシャツの裾を弄っている姿が、クロノに言及を押し留めさせる。
 秋の涼やかな虫の鳴き声すら問題にならない、細くて自信の無い消えてしまいそうな声に、クロノが対抗出来るはずもない。

「じゃ、じゃあ、後ろを持つから。それなら大丈夫だろう?」
「それなら……何とか」
「コツは実際に走って掴むものだ。とにかくやってみよう」
「が、がんばります」

 明らかに平仮名でそう答えたフェイトは、小さな握り拳を健気に作り、グッと肯いた。
 スタンドを起こして、後輪の荷台部分を両手でしっかりと挟み込む。
 ふと、自動二輪の免許取得の時を思い出した。あの時はこんな軽合金とアルミの軽い乗り物ではなかった。何百ccという排気量を誇る比較的大型に分類される 高分子素材の集合体であった。その重量を十一歳前後の身体で支えたというから無理無茶無謀としか言い様が無い。必死な自分を腹を抱えて笑っていた二人の師匠の 存在までもが勝手に記憶から出て来た。
 重い溜め息が喉を通って行った。フェイトも執務官になる以上は運転免許資格の取得は義務となる。その時は優しく指導しようと心に硬く誓った。
 そんなフェイトは、力みまくりな両手でハンドルをガッシリとホールドしている。

「あなたに命を吹き込んであげます――!」

 いや、意味が分からない。何となく覚えのある言葉だったのだが、思い出せない。確か、フェイトやアルフが読んでいた何かのマンガだったような覚えもあるのだが。

「フェイト。力んでも仕方がないから、肩の力を抜いて行け」
「は、はい」
「まずはゆっくりペダルを踏むんだ」

 恐る恐ると言った様子で、フェイトが右脚からペダルを踏み出した。チェーンが軽快な音を響かせて回転を始めて、細いタイヤを前進させる。
 緩やかな速度。覚束ない前輪。不安定に揺れる車体。クロノは小走りで追随しながら、それらすべてを支えた。
 梅雨時が近い事を予感させる暖かな夜風が、靡くフェイトの金髪と共に頬を包んで行く。わずかな湿り気とシャンプーの香りがクロノの鼻腔を掠めた。

「そうだ、その調子だ!」
「ク、クロノ! 手、離しちゃだめだからぁッ!」

 夜も深まっている事を忘れて、フェイトが甲高い声を上げる。

「もう少し重心を後ろにするんだ。前屈みになるなッ」
「それは分かるけど、こ、怖くて」

 いつもの物静かな、どこか凛然とした雰囲気すら持っている彼女らしかぬ震える声。本当に恐怖を覚えているのだろう。思っていたよりもこうした乗り物には 抵抗があるようだ。
 クロノは呼吸を整えると、務めて冷静に、そして優しく言った。

「僕が支えてる。大丈夫だ、絶対に離さないから」

 こんな時、感情表現が不器用で、照れ屋と指差される自分が恨めしい。気の利いた言葉は無く、そんな在り来たりな台詞しか出て来なかった。
 フェイトが振り向いた。そこにあるのは、驚きの感情。
 車体が大きく左右に揺れた。両腕の筋肉を軋ませて、クロノは全力で荷台を掴む。

「フェイト、前を向け! 余所見してる暇なんて無いぞ!」

 慌てて顔を戻したフェイトは、口許を引き締めて姿勢を取り戻す事に尽力する。程無くして車体が安定した。
 マンションの駐車場を出て、五十メートルほどの所で二人は自転車を止めた。Uターンをして、今度は駐車場へ戻る。夜の犬の散歩に出ている老夫婦に微笑ましく 見守られながら、二人は何度も往復を繰り返した。
 さすがに息が上がって来た。フェイトと自転車の体重を半ば支えつつ、時には全力疾走。アドバイスも挟みつつだったので、日頃から鍛えているとは言っても厳しいものが ある。

「クロノ、大丈夫?」
「問題ない。君はどうだ?」

 Tシャツで無造作に頬の汗を拭う。水分を吸ったシャツが裸の腹にひんやりと張り付いて来た。

「私は漕いでるだけだから平気だけど……」
「そうか。ならもう一往復やってみよう」

 やり始めた頃の不安定さはそれなりに消えて来た。同様に、フェイトからも自転車という乗り物への恐怖心も薄らいでいる。特訓をもう少し続ければ、乗れるようになるのも 遠くはない。

「いいの……?」

 後わずかで自転車を克服出来るようになるというのに、そう訊くフェイトの表情は、明かりの乏しい夜の中でも分かるぐらいに暗かった。

「何が?」
「クロノ、明日はお休みだけど、今日はお仕事で疲れてるのに」
「……何だ、そんな事か」

 迷惑をかけていると思ったのだろうか。水臭いフェイトに軽い落胆を感じて、クロノはようやく整った肩を力無く落とした。
 ぽんっ、とフェイトの頭に掌を乗せる。サドルを握り続けて汗の滲んだ少年の手が、綺麗な金髪をゆっくりと撫でた。

「妹が困ってるんだ。兄として助けるのは当たり前だろう? 遠慮なんてしないでくれ」

 家族になって数ヶ月。まだまだ不甲斐ないが、兄として、彼女に何かをしてやりたかった。執務官試験を熱心に見ているのは、そんな思いからもある。
 フェイトが顔を伏せてしまう。もごもごと身じろぎをして、掌を開けたり開いたりする。
 自転車に乗っていた時よりも、ずっとずっと、遥かに自信の無い声で、彼女が言った。

「あの、クロノ」
「ん?」
「もし……だよ。もし、クロノに好きな子が居て」
「い、居るもんか」
「居るって過程してだよ、もう。……居たら……やだ」
「え?」
「い……いいから、聞いて」

 フェイトの手がクロノのTシャツに伸びる。ぎゅっ、と小さな指で安物の素材を握り締めた。

「えっと……その子も自転車に乗れない子だったら……嫌いにならない?」
「……は?」

 質問の意図が掴めなかった。

「だから、私ぐらいの歳で、自転車に一人で乗れない子って、やっぱり格好悪いし、情けないし……。クロノ、そういう子って嫌いかなって思って……」

 何を心配しているのか分からないが、どうやら、フェイトは相当に不安を抱いているようだ。

「……何かが出来ないからって、僕は誰かを嫌いになったりなんかしないよ」

 フェイトが顔を上げる。撫でている指と指の隙間から、覗き込むようなフェイトの眼差しが見えた。

「ただ、出来ない事から逃げたり、そういう事をする子は苦手かな」

 出来ない事から逃げ出すのは簡単だ。嫌な事から眼を背ける事は誰にだって出来る。しかし、その逆は難しい。歯を食い縛り、無力感を噛み締めて、それを胸に 現実に立ち向かわなくてはいけない。それは並大抵の事ではない。他の誰よりも、クロノは身を持って知っていた。
 無責任に頑張れと肩を叩いて励ますつもりはなかったが、出来ない事には絶えず挑戦してもらいたい。今を見据え、未来の為に頑張る人の背中を、クロノは支えて いきたいと思った。それが喩え自転車に乗れるようになるという小さな事であっても、

「クロノ……もう少し、いい?」

 逡巡の後、意を決したようにフェイトが言った。

「特訓か?」
「うん。後少しでいけそうな気がするんだ」
「ああ、そんな感じはするな。じゃあ、次からは僕も楽をさせてもらおうかな。途中で手を離す。それでもいいか?」

 掌の下で、コクンと肯くフェイト。元来の負けず嫌いな性格のせいか、その幼い表情には並々ならぬ決意が伺えた。

「上出来だ。もちろん最後まで付き合うさ」

 乗れたぁ〜! という少女の歓喜の声が木霊したのは、それからさらに三十分後だった。



 ☆



 二度目の入浴は最高に気持ちが良かった。
 適度な疲労感と溢れるような達成感を同時に味わいつつの風呂である。それが格別なはずがない。鼻歌まで歌って、たっぷりと三十分ほどお湯に浸かった。
 汗まみれになってまで練習に付き合ってくれたクロノがリビングで待っているので、フェイトは髪の乾燥を早々に打ち切って脱衣所を出た。クロノが着せてくれた 彼のTシャツと名残惜しげにお別れをする。

「クロノ、お風呂上がったよ。入って」
「ああ。ありがとう」

 フェイトに冷たい麦茶を用意して、クロノがリビングを出て行く。すれ違い様、汗と彼の匂いが微かにした。
 学校の体育の時間に、はやてやアリサと軽くじゃれ合う時や、シグナムと行う苛烈な模擬戦の時に嗅ぐ自分の匂いとは明らかに違う。
 好きな男の子の汗の匂い。

「………」

 熱中していた自転車の練習を思い出して、フェイトは危うく麦茶を床に撒き散らすところだった。
 思考が勝手に動いて、自分の為に汗だくになってくれたクロノの仕草一つ一つを頭の中に流し始めた。
 まるで停止出来ないビデオテープ。それなのに、一人で乗れた時に浮かべてくれたあどけない微笑みはきっちりと一時停止して来る。
 兄として、というその言葉は哀しかったが、こういうのを夢心地というのだろうなと思う。
 麦茶を飲み干してグラスを濯いだ後、フェイトは自室に戻った。自慢の長い金髪の手入れという、風呂上りの重労働が待っているのだ。下手をすれば浴槽に浸かっている 時よりも時間を要する。
 髪を乾かして綺麗にした後、学校の宿題に取り掛かった。苦手な国語関係は多く出されているので、まずはそれから片付ける。辞書を片手に格闘。唸る度に筆箱の 横に鎮座しているバルディッシュが心配げに明滅して、フェイトを応援した。必要以上に無口なこの鋼のデバイスは、恐らくは自分が思っている以上に気心が知れている。
 宿題のほとんどが終わった時、フェイトは不意に何かを忘れている物思いに囚われた。何が、と問われれば首を傾げてしまうのだが、何か重要な事を置き去りにして いる感覚があるのだ。

「何だろう……?」

 明日の学校の準備は就寝前だ。執務官候補生としての試験対策勉強は、これからクロノに教える予定になっている。明日の朝食の下ごしらえは、冷蔵庫の中がほとんど空状態 なので、パン食を考えていた。

「洗濯物?」

 ぐらいだろうか。でもあれはクロノが風呂を待っている間に綺麗に畳んでくれた。もちろんクロノ本人のものとタオル等だけだ。フェイトやアルフの下着整理を やらせるなんて言語道断である。なら他に――。

「お布団!?」

 今日はとにかく驚きの悲鳴の出番が多い日だった。
 ペンを机上に放り出して部屋を飛び出したフェイトは、ノックもせずにクロノの部屋に飛び込んだ。思春期のはずの少年の部屋には、相変わらず生活の匂いというもの がない。数少ない家具の中の一つ――ベッドの上には、湿気を吸いに吸ってずんぐりむっくりな様相を呈している布団が、もっさりと横たわっていた。
 触って確認するまでもない。こんな布団でクロノを寝かせられるはずがなかった。彼は何気に干された布団を好む。日頃から太陽の陽を浴びられないほどに 慌しく仕事に追い回されている少年にとって、太陽の香りを思い切り吸い込んだ布団はとても気持ちの良いものなのだろう。
 それを知っていたにも関わらず、今日はうっかり干すのを忘れていた。

「……どうしよう」

 残念がるクロノの顔が浮かんだ。いつも以上に自分の為に疲れた身体を押してくれたのに。後ろ脚で砂をかけるような真似をしてしまった。
 背後から声がする。

「何か用か、フェイト」

 振り向くと、戸口の方で不思議そうに立っているクロノが居た。タンクトップとジャージという無防備な姿で。
 覗き込める胸板は熱を帯びて赤くなっている。フェイトは眼のやり場に苦慮して、取り合えず顔ごと横に向けた。

「よ、用っていうか、あ、謝りに来たっていうか」
「謝り? 何がだ?」
「……お布団……干しておくの忘れちゃってて」

 フェイトの視線が自然とベッドに向く。それを追ったクロノは苦笑した。

「別に構わないさ。こうやってベッドで寝られるだけで僕としては満足だよ」

 アースラでの彼の寝床は執務室のソファの上である。それなりの素材が使われている深みのある椅子であるが、寝心地に関してはベッドに遠く及びもしない。

「でも……」
「いいから、気にするな」

 そうは言われても、一度感じた罪悪感が簡単に払拭出来るはずもない。今日はずっとあれこれとしてもらっていた分、その思いは特に強かった。

「フェイト、宿題は済んだのか?」
「う、ん。大体は」
「という事は、執務官試験の勉強だな」

 肩に引っ掛けていたタオルで髪を拭く。十五歳の少年にしては線の細い身体付きだった。露になる脇の下や胸板が沈んでいたフェイトの心情に大規模な直下型地震に 相当する衝撃を問答無用で与えて行く。株価急騰の如く心拍数が大増加して、軽い痛みすら感じてしまった。あれだけ胸を苛んでいた重い罪悪感もどこ拭く風で、フェイトは 唇を噛み締める。さもなければ、緊張と謎の羞恥心で歪む頬を御する事が難しかった。
 髪を拭き終えたクロノは、クローゼットから寝間着を引っ張り出して袖を通した。

「付き合うよ。君の部屋でいいか?」
「……うん」
「じゃ行こうか」
「……はい」

 見えない手で引かれるように、フェイトはクロノに連れられて自室に戻った。
 その時のフェイトの部屋には、クロノに見られて問題のあるような物は何も無かった。近場のゲームセンターのUFOキャッチャーで、お小遣いの半分を投資して手に 入れたクロノ風のぬいぐるみがベッドの奥底に突っ込まれているが、布団を剥がない限りは眼にされないので安心出来る。

「君の部屋に入るのは久しぶりだが、相変わらず綺麗だな」
「あ、ありがとう……。でも、クロノの部屋の方が綺麗だよ……?」
「僕のは汚れるほど物が無いだけさ。試験問題だが、どこまで進んでるんだ?」
「えっと……」
「あ、机は僕が出すから。君は参考書を用意してくれ」

 クロノが壁に立てかけられていた折り畳み式の机に手を伸ばす。そんな彼に、フェイトは楽しげな雰囲気を感じた。勉強の用意をテキパキと始めたその背中は、 これから遊びに行く子供の落ち着きの無さを連想させた。
 これから夜遅くまで、それこそ眠くなるまで、クロノと執務官試験の対策勉強をする訳だ。広いマンションで二人きりで。

「……保つかな……」

 夕食を終えた時のように、フェイトは呟いた。何が保つのか、それは改めて考えなくても分かる事である。
 分厚い試験参考書やノートを、クロノが引っ張り出した机の上に広げる。ギクシャクとした手付きでシャープペンシルの頭をノックして芯を出していると、すぐ横に クロノが腰掛けた。
 濡れたままの彼の黒髪が、櫛で綺麗に梳かれたフェイトの金髪に触れる。それぐらいの近い距離。二人の間隙は極々わずかだった。

「どの辺りからだ?」
「……ここ……」

 袖が掠め合う。

「捜査権の行使、主張に関してか。この辺りは引っ掛けっていうか、小難しい部分が多かったな」
「……うん……」
「ノートを見せてもらっていいか?」

 それから何度か同様のやりとりをしたまでは覚えているのだが、その内容に関してはほとんど覚えていない。
 聞き取れる息遣い。
 感じられる体温。
 時折触ってしまう指先。
 クロノが口にしている試験対策が全然頭の中に入って来ない。記憶に留まる素振りを見せないのだ。眼は参考書の文字の羅列に集中せずに、クロノの真剣な横顔を 追っていた。そこにはフェイトの意思は――本人が心中で主張するには無い。彼女は必死に勉強に意識を傾けようとするが、ニトロエンジンのようになってしまった 心臓がそれを許さなかった。
 そう、抑えが利かない。抑制出来ないのだ。
 視線も。
 心拍数も。
 感情も。
 気持ちも。
 想いも。

「クロノ」

 フェイトが呼ぶ。無意識にそうしたのか、呼ぼうと思って呼んだのか、彼女自身にも分からない。

「ん?」

 クロノが振り向く。仕事中では決して見せない穏やかな表情。今日は自分だけをずっと見詰めてくれている優しげな瞳。

「好きな人、居る?」
「ま、またその話か。何度も言うようだが、居ないって」

 疑う訳ではなかったが、それが本当なら――今が告げる最高の機会ではないのか。
 今年に入ってから、ずっと心に秘めて来た淡い想いを伝える最大の機会ではないのか。
 何度も何度も言おうとして、でもその度に色々な理由を付けて答えを先送りにし続けて来た気持ちに区切りを付ける最良の機会ではないのか。
 自分とクロノ以外に家には誰も居ないという現実が、二人きりで部屋に籠もり、勉強を見てもらっている状況が、フェイトの迷いを小さなものにして行く。

「そんなのはいいから、ほら、集中しろ」
「……うん。でも、その前に……言いたい事があるんだ」

 シャープペンシルを静かにノートに置く。自由になった手が、脅えるように、戸惑うように、そっとクロノの手の甲に触れる。
 驚いたように彼の肩が揺れた。遠ざかるように身を引こうとする。
 追うフェイト。
 迫るような姿勢。

「―――」

 言葉が消えた。耳に入るのは、二人の呼吸と、乱れる事の無い時計の秒針の音だけだ。

「私は……クロノが……クロノの事が……」

 形の良い唇が『好き』と動こうとした時、心の片隅に追いやられていた理性という砦が囁くように問いかけて来た。



 本当に告白するのか。

 それで拒絶されたらどうするのだ。

 自転車の練習の時のように、『兄』と『妹』という言葉を突きつけられたらどうするのだ。

 今のこんな幸せな時も無くなってしまうかもしれない。

 喩え仮初めでも、何の気兼ねなく触れ合える時が消えてしまうかもしれない。

 優しいクロノは断る事に辛さを覚えて。

 自分はきっと悲しくて泣いてしまって。

 それが彼は自身を責めてしまうかもしれない。

 だったら――そうなってしまう可能性が少しでもあるのなら――。



 フェイトは手を離した。

「……凄く……頼りにしてるんだ」

 弱虫だと思った。
 勇気も度胸も無く、傷付く事から逃げている甲斐性なしだと思った。
 それなのに、きっと自分はこれまでと変わらない独占欲を出すのだろう。明るくて思っている事をはっきりと気兼ねなく口に出来るはやてに嫉妬して、クロノを困惑 させるのだろう。邪欲に負けそうになって、指を絡めたり、身体を寄せたり、彼を感じようとあれこれするのだろう。

「勉強、もっと教えて、クロノ」

 そんな自分が嫌になって、フェイトは誤魔化すように微笑んだ。



 ☆



 途中でフェイトの様子がおかしくなったが、それ以降は特に問題も無く、試験対策は恙無く進んだ。
 兄として頼りにされている以上、やられる事はしっかりとやり通したい。指導にも自然と熱が籠もり、彼女が眠そうに瞼を擦り始めている事に気付かなかった。
 時刻は夜十時を半分過ぎたところである。十歳のフェイトには少々辛い時間帯だった。

「済まない、フェイト。気付かなかった」

 妹の体調に気付かないなんて。これでは兄として失格ではないか。嘆息をつきながらクロノは己を律する。

「ん……気にしないで」

 弱々しく笑ったフェイトが机の後片付けを始める。自転車特訓の疲れが出たのか、半ば船を漕いでいる状態だった。

「明日の朝食は僕が用意するから、君はギリギリまで眠っててくれ」
「だ、めだよ。くろののごはんは……わたしが……」
「いいから。それぐらいやらせてくれ」

 筆箱にシャープペンシルや消しゴムを突っ込んだ時には、フェイトの意識はまどろみの中に埋没していた。
 健やかな寝息をつきながら、細い肩がわずかに上下している。そんな可愛らしい妹を、クロノは生まれたての赤ん坊を扱うように抱き上げた。
 腕の中で寒さに耐えるかのように身を小さくするフェイト。指はしっかりとクロノの寝間着を摘む。
 ベッドに寝かせる。シーツをかけてやろうとすると、その下から見慣れないぬいぐるみが顔を出した。

「……何だ、これは」

 この部屋には少女らしいぬいぐるみが幾つかある。リンディに買ってもらったり、なのは達から譲ってもらった物だ。
 だが、出て来たそのぬいぐるみは、どうにも違う感じがする。
 デフォルメされた男の子のぬいぐるみだった。短い黒髪に鋭い眼付き。黒灰色のローブのような衣服。手に持ったロッドのような物体。
 どこかで見覚えのある外見だったが、どれだけ頭を捻っても思い出せなかった。ただ、女の子が好んで欲しがるようなものには、どのような角度から凝視しても 見えない。

「変わった趣味をしてるな、この子は」

 枕元に置いてやる。ベッドに置かれていたぬいぐるみ達と一緒になると、ますます違和感のある代物だった。
 不思議に思いながら立ち去ろうとすると、やはりというか、未だに寝間着をフェイトに握り締められたままだった。

「離して……って言っても、寝てるか」

 すでに熟睡モードである。試しに指を解こうとしたが、想像以上に力が入っていた。起こさずに解くのはなかなか難儀だ。
 どうするかと思案してみると、フェイトを起こすか、このまま自分も寝てしまうかの二つの選択肢しかない事に気付いた。
 吟味するには五分ほど必要だった。一緒に眠るのは悪い気がしたが、気持ち良さそうな眠りを妨げるのは躊躇われた。

「……悪いが、ここで寝かせてもらうよ、フェイト」

 風呂の一件でどぎまぎしていた心中は、汗を流した時にいつもの落ち着きを取り戻していた。ここでフェイトがあのTシャツ一枚だとか、そんな悩ましげな身形をして いれば話は変わっていただろうが、今はシンプルな寝間着姿である。
 起こさないようにフェイトの横に寝そべり、リモコンで電気を消した。視界が一気に真っ暗になる。カーテンの隙間から射し込んで来る月明かりがフローリングに 反射して、蒼白い光を床に走らせた。
 シーツを肩にまでかけてやり、片腕を枕代わりにする。さすがに同じ枕を使うのは気が引けた。
 彼女と一緒に眠るのはこれで二回目だろうか。一回目は随分前で、エイミィに怪談話を聞かされて怖くて一人では眠れないと、夜遅くに訊ねられた時だ。
 あの時のドキドキを思い出すと、心臓までもがその記憶を掘り起こしたかのように心拍数を上げる。

「眠るのは苦労しそうだな」

 なるべく身体を離して、クロノは眼を瞑る。こんな時、フェイトの静かな寝息を正確に聞き取ってしまう自分の耳の良さが憎らしかった。
 睡魔は思っていたよりもずっと早く訪れた。思い返せば、今日は本当に良く動いた日である。通常業務の後に家事全般をこなし、最後には自転車訓練だ。風呂に 長湯をした事で疲労が垢や汗と共に一気に流れ出たようだった。

「おやすみ、フェイト」

 明日の休日も彼女の勉強を見てやろうと決めて、クロノは眠りについた。



 ☆



「ただいまぁ〜」
「お邪魔します〜」

 クロノにリハビリを付き合ってもらうというはやてを連れて、アルフは自宅たるマンションに帰宅した。
 きっと朝から慌しいんだろうなぁと思っていたのだが、家の中には人の気配が無かった。話し声一つ聞こえない。

「寝てるのかな?」
「クロノ君ってお寝坊さんなんですか?」
「たまにね。大抵は休みの日でも早起きなんだけど」

 アルフははやての車椅子の車輪を持って来たタオルで綺麗にしてやると、彼女と共に家に上がった。
 リビングには誰も居なかった。クロノの部屋に行ってみても、その殺風景な部屋に主の姿は無い。

「フェイトの部屋かな?」
「……何や、嫌な予感がします」

 不機嫌そうに唸るはやて。アルフの手を離れてスティックを操作。車椅子をフェイトの部屋へ向ける。
 ノックをしてみるが返事は無い。胸を過ぎるざわつくような感覚が強さをグッと増した。

「フェイトちゃん、入るで」

 一応の断りを入れて入る。後から追って来たアルフも一緒だった。
 広々とした親友の部屋を一望する。ベッドが妙に膨らんでいる。明らかに一人分ではない。

「………」
「………」

 沈黙。はやてとアルフは無言のまま歩をベッドを覗き込んで、

「フェイトちゃん不潔やぁッ!」
「このエロ坊主がぁッ!」

 幸せそうな寝顔で、クロノとフェイトが抱き合うように眠っていたのだ。
 早朝のマンションの一室で、冗談のような喧騒が撒き散らかされた。





 fin.





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 □ あとがき □
 読んでいただきましてありがとうございました。
 まずは言い訳。一括で読まれた方は問題ないのですが、この話、一話は去年の七月掲載で、終わるのに半年くらいかかってしまいました。理由としては、当時 執筆していたSC本編を優先していた事。それから、フェイトの好意に気付いていないクロノのまま、ナチュラルにイチャイチャするという話が納得できる形で 書けなかった事が挙げられます。できればSCが終わる前に全部書いてしまいたかったのですが…無念。
 意気地なしなフェイトは、この数日後に同じように言おうとして、暴走事件を迎えてしまうというどーでもいい裏設定もあります。ただ、この時言っていたらどう なっていたのかなぁとも思います。何せこの時のクロノはなのはを好きにはなっていないので(汗)。
 D−LIVEな所は遊び心。自動二輪の免許はSCの伏線(汗)。車輌免許は実際にあるのかな、管理局に。まぁ仮にあれば、一般的な資格として取得させられ そうですけどね。
 大変長らくお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。





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