魔法少女リリカルなのは SS

罪と罰

♯.1







 思い出す。
 ゆっくりと、噛み締めるように。
 包み込み、労わるように。
 過去と呼ぶには大仰な記憶だった。
 思い出と言うには心地良さを覚える事もできない。
 そんな記憶は、戦友達との会議。

「――闇の書、か――」

 風が言葉をさらって行く。
 そう、あれは会議だった。今日まで暖めて来た計画を本当に実行するのか、否か。その賛否を確認する為の会議だった。
 結果は、実行。会議は開始から終了まで五分を必要としなかった。
 眼下の世界を望む。
 朝靄に煙る都心部。ミッドチルダの首都クラナガンでも、同じような光景を見る事ができる。
 地面がまるで見えない。正確に言うのなら、地上のどこに視線を走らせても、平地が無かった。それほどまでにぎっしりと、巨大な建築物達は乱立していた。 充分な隙間を設けずに建造された高層ビルディングの群れは無秩序であり、地平線を歪めてしまうほどだった。すべてが人工物で構成され、自然の恵みによって 生み出されたモノは、車道に沿って植えられている並木ぐらいだろう。
 そんな『箱庭』と形容するのが適切な光景が、昇って来た朝陽に照らされ、白銀色に輝く。
 しかし、この街には人気が無かった。
 完全に皆無だ。
 車道を走る車は無い。
 歩道を歩く人間もいない。
 明かりの付いているビルも無い。
 何も無い。
 雑然としたビジネス街は、息絶えた獣のように沈黙していた。
 人々が生活を営んでいた痕跡のみが、そのままの形で保存されている世界。
 この世界に生きた人間はただ一人だった。

「無駄な事だろうさ」

 独りごちた。

「分かっているとも」

 渋みのある声は掠れていて、疲れを感じさせる声音だった。

「そう、無駄な事だ」

 男は老人だった。

「だが」

 男が背後に振り返る。
 朝陽が男の影を床に刻み込む。逆三角形を連想させる分厚い上半身と、それを支える屈強な下半身。彫の深い顔に刻まれている皺や、顎に蓄えられている白髭 からは想像もできないアスリートの如き完成された戦士の肉体だった。

「現実には無駄な事であっても、我々にとっては無駄ではない」

 向き直った男の前には一匹の犬がいた。どこにでもいるような雑種の中型犬は、好奇心に溢れた瞳をくりくりと動かし、男を見詰めていた。

「私を恨むか?」

 犬には答える事はできない。親しげに尻尾を振るだけで、吠える素振りも見せない。
 家畜との言葉のやりとりが無駄であるとは、もちろん心得ている。
 ただ、この犬には謝罪をしなければならなかった。

「済まない」

 頬を撫でてやる。捨て犬だったのか、酷い手触りだった。

「だが、私は止めるつもりはない。十一年前のあの出来事を。喩え今のマスターが何の罪も無い九歳の少女であろうと」

 犬が首を傾げる。その無垢な仕草が、男の頬を綻ばせる。
 男は犬を撫でながら、その場に胡坐をかいた。朝陽に眼を細めながら、歪な地平線を眺望する。
 犬はじっとしている。今自分を可愛がってくれている男が、数時間後には自分を殺してしまう事も知らずに。
 男の名はディンゴ・レオン。時空管理局本局に在籍し、陸戦技教導隊を監督する立場にある提督職の局員だが、そんな仰々しい肩書きにも今日付けで別れを 告げる事になるだろう。
 今日、ディンゴは一人の少女を殺害する。年端もいかない九歳の少女の息の根をこの手で止める。それがどれだけの波紋を管理局に投げ、如何なる事態に陥って しまうかも理解している。半世紀以上に亘って身を置いて来た組織に衝撃を与えてしまう後ろめたさはあった。
 だが、少女を殺すという事に、ディンゴは些かの躊躇いも抱いてはいない。孫と祖父ほどの歳の差があるが、逡巡する気も無かった。
 殺すのだ。
 何が何でも。
 必ず。絶対に。確実に。
 その生命を断つ。
 泣こうが、喚こうが、叫ぼうが、命乞いをしようが、抵抗をしようが。
 苦しまないように、死を実感する時間も与えずに殺す事が、ディンゴにできる少女への唯一の手向けだった。

「棺桶にしては広すぎるが」

 古代遺失物――ロストロギアの発動によって生命が断絶されたこの観測指定世界が、少女には早過ぎる棺桶となる。

「闇の書が犯した罪を考えれば、決して広くはない」

 ディンゴは静かに朝陽を見遣る。犬は座したまま身じろぎ一つしない。

「来い、八神はやて。闇の書事件の本当の終わりは、お前が死ぬ事で迎える」

 揺らぐ事の無い瞳は、いつまでも朝陽を見詰めていた。



 ☆



 与えられた任務は、そう難しいものではなかった。

「誰もおらんのやな……」
「ああ、そのようだ」

 呟くようにクロノが言った。彼はこちらを見ようともせず、硬い表情を崩さない。周囲の光景を見渡している黒い瞳には、強い警戒の気配があった。
 はやては息苦しさを覚えて溜息をついた。普段から仕事に対しては真面目一辺倒なクロノだが、今日の彼はギスギスとした近寄り難い空気を発している。 気にはなったが、訊ける雰囲気でもなかったので、はやては口を閉ざす事を選んだ。
 二人はビル街にいた。
 乱立している背の高い建造物が壁のように軒を連ねている光景は、ここが異世界である事を忘れさせるに充分だ。はやてが想像していた異世界とは、手付かずの 自然が豊富に残されていたり、耳の長い長寿な種族が存在していたり、剣や魔法が飛び交うファンタジックなものだ。こんな近代的な別次元の世界があるとは夢にも 思っていなかった。
 そんなコンクリートの建築物が支配する世界には、しかし、人々の暮らしの喧騒が無かった。
 生活の匂いも、人の気配も、一切が無かった。
 人間が生活を営んでいた痕跡すべてが残されていない街。
 人が住んでいたはずなのに、誰もいない灰色の都市。
 はやてとクロノが訪れた世界は、そんな世界だった。
 二人は管理局の制服ではなく、はやては魔導騎士の甲冑を、クロノはいつもの黒灰色の法衣を、それぞれ身に纏っていた。魔力で編み上げられたバリアジャケット は耐衝撃、耐魔性能に優れているだけではなく、熱や寒波に対しても高い性能を持っている。『災害救助』という任務に於いても頼りになる装備品だった。
 背中の六枚の羽を折りたたんだはやてが、側のオフィスビルに歩み寄る。壁一面がガラス張りの綺麗な建物だった。
 入り口を探すと、自動ドアらしい扉を見つけた。前に立つものの、作動する気配はない。思い切って扉の隙間に指を突っ込み、力任せに左右へ押し開けてみる。
 ガランとしたエントランスホールが、扉の向こう側には広がっていた。
 照明も何も付いていない。館内電話を置いた受付カウンターには誰も立っていない。ポロモーション用に設置されている大型ディスプレイは沈黙していて、ホール の中央にある噴水は一滴の水も流してはいなかった。
 事前から聞かされていた情報が確かなら、これは当然の光景だった。そう思い、はやては軽く眼を伏せる。

「ほんまに誰もおらへんのやな、この街」
「残念だけど、その通りだ。ただ危険が無いとも限らない。迂闊に動かない方がいい」

 はやての後を追って来たクロノが言った。

「……ん、分かった」

 クロノが携帯していた情報端末を操作する。電子音だけが静かに響いた。

「反応があった場所はそう遠くないな。歩いて行ける距離だ」
「残ってる人、無事ならええんやけど」
「……そうだな。取り合えず捜索に入ろう。事件原因のロストロギアは回収されているけど、油断は出来ない。注意して行くぞ」
「了解や」

 二人は与えられた任務の遂行を開始する。
 任務内容は、災害救助という名の生命反応捜索。
 現場は、次元干渉型の第一級ロストロギアの影響によって、生命という生命が消失し、誰もいなくなった世界だった。



 ☆



 その任務は直接の上司に当たるレティからでは無く、名も知らぬ提督から下された。
 管轄外世界で大規模な次元干渉型ロストロギアの稼動を確認。発生地域を中心に数キロに渡って生命反応が消失。急行した捜査官達によって問題のロストロギアは 封印されたものの、発生地域付近に微弱な生命反応が検出。八神はやては単身現場に向かい、状況を確認せよ。
 任務名目は災害救助だった。ただ、それならば本局が抱えている災害担当の救助隊に任せれば済む話だ。仮配属期間中の新人局員に回すような任務ではない。
 そこに疑問を覚えつつも、はやては素直にこの任務を受諾した。何事も経験であり、今は多くの現場を学ばなければならない時期である。
 だが、不安を覚えなかった訳ではない。
 シグナム達守護騎士が誰一人として随行していないのが大きな懸念要素だ。レティの計らいで、四人の内の誰かが必ず一緒に任務に臨んでくれた。誰よりも背中を 任せられる彼女達がいたからこそ、はやては心置きなく不慣れな任務に就けたのだ。
 今回はそれが無い。心細くなってしまうのも当然だった。
 脚が回復の兆しを見せていると言っても、魔力を通さなければ、まだ思うように動かない。デバイスもはやて専用の物ではなく、マリーが準備してくれた 高性能ストレージデバイスシュベルトクロイツだ。ストレージタイプの最新鋭型であるデュランダルには及ばないものの、高い 拡張性と出力を誇る特注品だが、それでもベルカ式とミッド式、機軸の違う二系統の魔法を行使できるはやてをマスターにするには力不足である。
 人も装備も頼れない。これで不安にならない人は普通ではない。大人びているはやてでも同様だった。
 私一人で大丈夫だろうか。発見された生命反応の主が取り残された現地の人間だった場合、自分はしっかりと保護する事ができるだろうか。
 不安は尽きない。それでも、そうした弱気な感情を顔や雰囲気に出さなかった分、彼女は評価に値する少女である。
 任務に向かう前にシグナム達に連絡を取っておこうと思ったものの、運悪く全員が別任務に従事していた為、誰とも話せなかった。
 それが余計にはやての不安を煽り、心をヤスリで削る。
 だから、遠距離型のトランスポーターで現地に向かおうとした時、クロノに呼び止められたのは嬉しかった。

「話は聞いた。君はまだ単独任務をこなした事が無かっただろう? いきなりがこれじゃ辛すぎる。僕も同行するよ」

 そんな彼の言葉に、はやては内心で胸を撫で下ろす事ができた。おかしな重圧から逃れられたような気がした。
 ただ、クロノにも仕事があるのではないのか。そう思って訊いてみると、

「書類の片付けくらいしか残ってないから大丈夫だ。君が気にする事じゃない」

 不器用な彼の笑みが、さらに心を軽くしてくれた。
 思えば、クロノと一緒に何かをするというのはこれが初めてだった。それどころか、歳の近い異性の子と二人きりになるのも初めてだ。その初めてが管理局の任務 とは色気も何もあったものではないが。
 はやては、今度時間が空いたら一緒に食事でもしたいなと思いつつ、彼と一緒に現地へと飛んだ。
 そして今に至る。



 ☆



 捜索を始めて二時間が経過した。
 手当たり次第に街を捜索するものの、人影どころかネズミ一匹出て来ない。世界から隔離されてしまっているような空気がどこまでも続いていた。

「そちらはどうだ、はやて」
「駄目や。捜索魔法にもヒットせぇへん。気配もせんし」
「こんな事ならユーノ辺りを連れて来るべきだったな。あいつの補助魔法の類に頼るのは凄まじく遺憾だけど」

 先を行くクロノが、珍しくおどけたように言った。
 はやてはクスリと笑って、

「ユーノ君は無限書庫で忙しいから、そら無理やで?」
「まだ正式に司書にはなっていないから問題無いさ」

 肩を竦めるクロノ。

「クロノ君はユーノ君に厳しいなぁ」
「そうか?」
「そう思うで」

 肩越しに振り返ったクロノが、不思議そうにはやてを見詰める。いつの間にか、クロノからは重苦しい雰囲気が消えていた。その表情も今は穏やかだ。

「相手によって態度を変えているつもりはないぞ、僕は」
「そうかなぁ? なら、どうして今日は私と一緒に来てくれたんや? 忙しいはずやで、クロノ君は」
「来る前に言っただろ。初めての単独任務がこれでは辛すぎる。だから」
「ユーノ君には遠慮無く無理言ってそうなんに、私にはこうして優しくしてくれる。これは明らかに人によって態度を変えてる感じやで」
「や、優しいとか、そういうのじゃない」

 口を尖らせたクロノは、照れを隠すように顔を背けてしまった。
 執務官という役職や日頃のそっけない態度から、少し近寄り難い印象のあったクロノだが、こうした面では十四歳という少年らしい表情を浮かべるものだ。 それが嬉しくて、はやては笑顔をこぼす。

「ほら、無駄口からいいから捜索を続けるぞ」
「は〜い」

 シュベルトクロイツの魔力回路に魔力を供給し、捜索魔法を行使。生命反応の正確な位置特定を行おうとする。この手の補助魔法に関してはベルカもミッドも 大差は無かったが、はやてはベルカの魔導騎士であり、ベルカ式魔法の扱いに長けている。得意な術式の方が効率は良かった。
 はやては淡い輝きを発しているシュベルトクロイツを下ろすと、眉を潜める。

「……やっぱり駄目や。どうにも反応が弱すぎて正確な場所が掴めへん。それっぽい位置は分かったんやけど」
「こちらの端末もそうだ。不明確な位置特定しか出来ない。……人じゃないのか?」

 役に立たない端末をポケットに戻すクロノ。嘆息づいた後、懐から銀色のタロットカードを抜き、宙へ放った。放られたカードは眩く光ると、刹那の間に本来の姿であ る機械仕掛けの魔導の杖――S2Uへ変化する。

「人じゃないって……?」

 警戒の色を濃くして行くクロノに、はやては不思議そうに訊いた。
 だが、クロノは答えない。顕現したS2Uを構えた彼は、注意深く、それこそ敵を睥睨するようにして周辺に視線を走らせる。

「クロノ君?」
「……用心してるだけさ。はやて、ひとまず特定した場所へ行ってみよう。しらみ潰しに探すにはこの街は広すぎる」
「そう、やね」

 釈然としないものの、はやては肯いた。
 現地に到着してから、クロノの様子が少しおかしかった。ただの災害救助であるはずなのに、異常な程に周囲を警戒している。研ぎ澄まされた刃物のような眼差しで辺りを 見渡し、物音一つにも反応する。
 彼の言葉の通り、用心しているだけなのかもしれないが、はやてから見ても過剰過ぎるような気がした。まるでこれから先何が起こるのかを知っていて、それに対して態勢 を整えているような、そんな雰囲気すらあった。
 クロノが先を行く。後から着いて来るはやてとは着かず離れずな距離を保ち、街道を歩いて行く。
 二十分ほど、二人は言葉を交わす事無く無人の街を進んで行った。

「この辺りか」

 クロノが脚を止める。
 そこは背の高いビルが疎らになっており、都市の中心から多少外れた場所だった。オフィス街ではなく、繁華街と呼んだ方が適切だろう。改築に改築を 重ねた雑居ビルが多く立ち並び、壁には無数の看板が、街灯には品の悪いポスターやビラがずらりと貼り付けられている。先程まで小奇麗だった街道も薄汚れたものに なっていて、異臭さえ放つ有様だった。
 繁栄している経済都市の裏側。どこにでもあるありふれた繁華街。雑踏のような風景。
 シュベルトクロイツを握り締めるはやての手に自然と力が篭もった。小走りでクロノに歩み寄る。
 数ヶ月前までは脚が不自由なただの少女だったはやてに、繁華街の陰惨な光景は酷だった。
 読書が好きなはやては、同年代の子供達と比べて知識が豊富だ。こういう街が実際にあるというのは情報としては知っていたし、どういうものなのかも、何となくでは あるが理解もしている。
 それでもはやては九歳の少女である。知っていても受け入れられないものはある。
 不安そうに身を寄せて来るはやてに、クロノが失笑した。

「わ、笑わんでもええやん」

 むくれるはやて。

「ああ、すまない。Sクラスの魔導師でも、やっぱり女の子なんだな」
「あ、当たり前や。どっからどう見たら男になるんや、私!?」

 はやては怒りに任せてシュベルトクロイツを振り回した。

「それに、私は魔導師やない。魔導騎士や!」
「そうだったな。ごめんごめん」

 特に反省した様子も無く、クロノは和やかに微笑む。

「誠意が無いなぁ。……決めた。帰ったらご飯奢ってな、クロノ君」
「どうしてそうなる……?」
「女の子怒らせたんや。それくらい当たり前やろ?」
「いや、だから謝って……」
「誠意が感じらへんかった。だから、ご飯奢ってくれたら許したげる。どや?」

 覗き込んだクロノの黒い瞳は、笑える程に動揺に溢れていた。
 はやては彼に考える時間を与えるつもりは無かった。仕返しとばかりにあれやこれやと提案を始める。

「この前クラナガンですっごく美味しいレストラン見つけたんや。予約せなあかんからちょい面倒やけど、そこでええよ」
「決定事項なのか、奢る事は……」

 力無く肩を落とすクロノ。

「もちろん。クロノ君に拒否権はあらへん。自業自得や」
「……分かったよ。次、時間があったらな」
「日にち教えてな。予約入れとくから」
「……了解」
「よっしゃ! ほな捜索再開や」

 クロノを置いて、はやては元気良く脚を繁華街へと踏み出した。同時に気付く。
 身を縮めさせていた陰惨な恐怖心が、いつの間にか消えていた。
 思わずはやては脚を止めてしまう。自分はこんなに落ち着いていただろうか?

「はやて、注意は怠るな。魔力反応は無いが、何かがいる事に間違いはないんだ」

 表情を引き締めたクロノが、はやてに歩み寄る。
 自分のものと少ししか違わない小柄な背中が、とても大きく見えた。
 クロノと自分は同年代ではない。十四歳の彼が五歳年上だ。その割には背があまり高くないし、表情にもまだ幼さが見え隠れしている。生真面目な性格は義理の 妹であるフェイトと良く似ているかもしれない。そんな数少ない異性の友達の事を、はやてはあまり知らなかった。
 生真面目で、そっけなくて、ぶっきらぼう。そんなイメージが付き纏っていたが、そこにもう一つ加わるものがあった。
 優しいなと、はやては思った。
 何でもない砕けた会話が、得体の知れない不安や恐怖を掻き消してくれた。
 任務を受けた時からずっと感じていた閉塞感も、今はほとんど感じない。思考はクリーンで、捜索魔法の行使もスムーズにできた。
 はやては小走りでクロノの横に行くと、その顔を覗き見てみる。
 鋭い視線を雑居ビルに向けている十四歳の少年の顔は、とても凛々しく、端整だった。

「……優しいな、クロノ君は」

 自分でも聞き取れるかどうかな小さな声で呟いて、はやては笑った。
 その時だった。クロノがS2Uを操り、その先端を街道の一角に構える。

「動くな!」

 一喝。唐突な怒鳴り声に、はやてはビクリと肩を震わせる。
 クロノが険しい表情で前方を見据えていた。その視線の先とS2Uの先端が向けられている場所に、はやても視線を走らせる。
 ゴミが散乱している街道が広がっていた。生ゴミや粗大ゴミが盛大にぶちまけられている。そこに黒い何かが動いていた。
 はやては凝視するまでもなく、その影の正体が理解出来た。
 犬だ。取り立てて目立つ事の無い、茶色と黒が混ざった成犬である。

「犬……?」

 微弱な生命反応はこの子だったのだろうか。
 クロノの声に反応して、生ゴミを漁っていた犬が顔を上げる。獣特有の機敏とした動き。尻尾と耳を跳ね上げて緊張を露として、射抜くような眼でクロノとはや てを注視する。
 まったく予想出来なかった生存者を前に、はやても、S2Uを構えているクロノでさえも身じろぎ一つ出来なかった。
 犬は動けない二人を前にゆっくりとした動作で生ゴミを口に咥えると、脱兎のように逃げ出した。
 クロノは呆然と犬を見送る。撃発音声の入力で完成するはずだった魔法を消去し、構えていたS2Uを下ろした。

「どうして犬が……」

 もっともな疑問を口にするクロノを無視して、はやては走り出した。まだ麻痺感覚が残っている脚は、今は有り余る魔力で擬似神経を構築している為、 何の苦も無く動かす事ができる。三ヶ月前まで一切動かせなかったのが嘘のようだ。

「はやて、待てッ!」

 呼び止める声を背中に受けながら、はやては走る。
 発見された生体反応の主はあの犬で間違いない。だが、ロストロギアの影響で一定範囲内から生命が根こそぎ消されてしまった世界で、何故犬一匹が生存してい るのか。原因不明の事態だが、はやてはそんな事はどうでも良かった。
 あの犬を保護する。
 誰かに飼われていたのかもしれない。もしかしたらただの野良犬の可能性もある。それでもはやては、こんな誰もいない寂しい街に、あの犬を独りにするなんて できなかった。
 だが、その思いとは裏腹に犬との距離は開く一方だった。犬の脚力を考慮すれば当然だが、はやてはそもそも走るという動作に不慣れだったのだ。

「ちょっと待ちッ!」

 駄目元で叫んでみるが、もちろん犬は脚を止めないし、振り返りもしない。

「このッ……! スレイプニールッ!」

 折り込まれ、小さくなっていた六枚の黒い翼が広がる。軽い浮遊感。魔力を翼へ集中させ、高度と速度を調整する。路上に散乱していたゴミを吹き飛ばして滑空した。
 体力を使って追っていたのが馬鹿らしく思える程、はやては呆気無く犬に追いつく。

「ごめん! ちょい痛いかもしれんけど――ッ!」

 犬の疾走方向へ魔力を集中する。極小の結界魔法を発動。強度レベルは最弱に。羽毛のような柔らかさには出来ないまでも、ダンボールよりも多少硬い程度には 展開可能だ。
 術式が完成する。魔力を供給したシュベルトクロイツを犬の前方へ翳し、構築された複雑な術式を制御・解放。頂点に円を描いた正三角形が展開され、後は魔法発動・ 顕現に必要な撃発音声を入力するだけとなった。

「我慢し――!?」

 はやては思わず言葉を飲み込んだ。
 飛行しているはやてと疾走している犬の前方。そこには巨大な高層ビルディングがそびえ立っていた。背の低い雑居ビルで構成された繁華街の中では、コンクリートと 鉄筋で建造されたそのビルはあまりにも異質だ。恐らくは都市開発の為に無計画に建設したのだろう。奥には同じように背の高い建物が立ち並んでいる。
 はやてが息を呑んだのはビルの規模ではない。ロストロギアの影響なのか定かではないが、そのビルは四階部分を抉られたかのように失っていた。四階から上を支 えているのは、半分になってしまっている四階の柱とか細い鋼の梁のみだ。
 あんな危険な建物に近づけるはずが無い。強風に吹かれただけで倒壊するのは誰の眼にも明らかだ。

「あかんッ! そっちに行ったら駄目やッ!」

 後にして思えば、ここで焦らずに結界魔法を発動させて犬を止めていれば良かった。だが、はやては魔法という技術と知識を習得してからまだ数ヶ月と経過していない。 知識や意識よりも、本能が身体を突き動かしてしまっても仕方が無かった。
 両手を広げ、体当たりをするように犬を抱きかかえる。当然のように犬は暴れた。四本の脚をデタラメに動かし、はやての身体を引っ掻き回す。手の甲や顔に荒々しい爪が 幾度と無く傷を付けた。
 はやてが鋭い痛みを我慢して飛行軌道を修正しようとしたその時、微かな異音が耳に届いた。何かが弾けるような、そんな人工的な音だった。
 それが崩壊の引鉄となった。
 辛うじて形を保っていたビルの四階部分が圧壊した。堅牢な鉄筋が水飴のように『ぐにゃり』と変形して、圧力には脆弱なコンクリートが崩壊。命綱を失った 四階から上が断末魔のような轟音を上げて崩れ始め、総重量数百トンの残骸の津波を形成。周辺の雑居ビルに雪崩れ込んだ。
 周辺の建造物を薙ぎ倒し、理不尽な勢いで飲み込んで行く残骸。それははやての頭上まで迫っていた。太陽の光が遮られ、視界が暗くなる。
 駄目だ。暴れる犬を抱えたはやては一瞬で絶望した。ベルカ式、ミッド式両方の防御魔法も間に合わない。待機状態にしてあった結界魔法も、強度の再構築を行っ ている暇が無い。
 すべてを押し潰す構造物がはやての視界を埋め尽くして――。

「はやてぇッ!」

 クロノの絶叫を最後に、はやての意識は黒で塗り潰された。



 ☆



 最初に聞こえた声は自分自身の呻き声だった。

「ん……」

 ぼやける意識。はっきりとしない視界。はやてはその二つを使い、惚ける頭で状況を確認した。
 視界は闇によって完全に支配されていた。モノの輪郭が何も捉えられない。首を動かして左右を見ようとするものの、首筋に激痛が走ったので止めた。瞳だけを 動かす。
 硬質感のある壁に取り囲まれている。ようやく覚醒し始めた意識が現状を即座に把握した。
 はやてはコンクリートと鉄筋の隙間にできたドーム状の空間に閉じ込められていた。人一人が何とか納まる程度の面積しかない、小さな小さな空間である。

「私……」

 身じろぎをする。途端に身体中が痛んだ。

「あぅッ……!」

 身体を貫く問答無用の激痛が、はやてに意識を失う前の光景を思い出させる。
 唯一の生存者だった犬を追跡。不可解な音。倒壊するビル。迫る瓦礫。巻き込まれた自分。そしてクロノの叫び声。
 鮮明に蘇る記憶。はやては襲い掛かる痛みに顔を歪めながら首を動かした。

「あの子は……!? クロノ君ッ!?」

 はやての声が小さな空間に木霊する。
 自分の身体の状態なんてどうでも良かった。手も脚も痛くて仕方がなかったが、それでも痛みを感じるという事はちゃんと身体にくっついているという事だ。満身創痍 だが五体満足。それで十分だった。
 呼び掛けに返事は無い。代わりに、腕の中で何かがもそもそと動いた。
 あの犬が、はやての小さな胸の中にいた。

「無事やったんか……!?」

 思わず抱き締めると、犬が苦しそうに喉を鳴らした。慌てて解く。

「ご、ごめんな。どっか痛い場所とかないか?」

 明かりの類が一切無い為に良く見えないが、闇に慣れたはやての眼は、犬に傷らしい傷が無い事を確認する。
 安堵の吐息が自然と出た。

「良かった……」

 犬の頭をそっと撫でる。犬は捕獲した時が嘘だったかのように、大人しくはやての愛撫を受けた。
 だが、心が温まったのは一瞬だった。

「クロノ君!? クロノ君どこやぁッ!?」

 返事は無い。

「そんな……! クロノ君! 返事せぇッ!」

 金切り声が木霊する。はやては不安そうにする犬を抱き締めながら、血の気が引くという感覚をおぞましい程はっきりと感じた。
 徐々に、緩慢に、ゆっくりと。少しずつ恐怖がはやての身を侵食して行く。
 押し寄せる瓦礫を眼前にした時、はやては確かにクロノの絶叫を聞いた。恐らく飛び出したはやてを追い、すぐ近くにまで来ていたのだろう。
 はやてと同様に巻き込まれたと考えるべきだ。

「クロノ君! クロノ君!!」

 絶叫が小さな空間に反響し、どこかに消えて行った。少女の声は、このコンクリートの分厚い残骸の壁に対してあまりにも無力だった。
 感覚であるはずの恐怖が、しっかりと肩を抱いて来たような気がした。
 呼びかけが続く。思念通話という考えは、とてもではないが今のはやての頭には浮かばなかった。

「クロノ君ッ!!!」
『そんな大声を出さなくても聞こえてる』

 彼の声が頭の中に直に響いた。思念通話だった。

「ク、クロノ君!?」

 はやては念話で返す事も忘れて叫んだ。
 硬い物を叩く音がした。

『ここだ』

 首筋の痛みも忘れて、はやては見渡せる範囲で周囲を見ると、すぐ側の壁が乾燥した音を鳴らしていた。硬い物を杖か何かで突付いたような音である。
 どうやら、この向こう側にクロノが生存しているようだ。

「無事なんか!? どっか怪我とかしてないんか!?」
『ああ。何とかね。ちゃんと手足はついてる。君は?』

 問われて、はやてはようやく冷静さを取り戻す事ができた。声にはせず、思念通話で応答する。

『わ、私も大丈夫。あの子も無事や!』
『あの子……?』
『ああ、私が追いかけた犬や。今一緒におる』
『大丈夫か? 暴れてるんじゃ……』
『ううん。大人しくしてるで。怪我らしい怪我もしとらんし』

 胸の中でじっとしている犬を見る。

『そうか、良かった』
『取り合えず脱出しよ。このままじゃいつ潰されるか分かったもんやない』

 手探りでデバイスを探る。
 どれくらいの残骸の中に生き埋めになっているは分からないが、そう遠くない未来に完全に潰れてしまうだろう。それが一分後なのか 一時間後なのか、それとも一日後なのかは分からない。
 指先にコツンとコンクリートとは違う手触りの何かが当たる。握り締めると、それがシュベルトクロイツだと分かった。

『クロノ君、こっちは準備OKやで』
『……はやて。脱出は止めた方がいいかもしれない』

 呟くように彼が提案した。
 はやてはその言葉の意図が分からず当惑する。

『な……なんでや。このままここにおっても潰されるだけやで』

 間が空く。まるで逡巡するような間だった。

『……少し気になったから、検索魔法を使ってこの瓦礫を調べてみた。結果、瓦礫は微妙なバランスの上でこの現状を保っているのが分かった。下手に魔法で吹き飛ばせば、 そのバランスが崩壊する。そうなれば今度こそ僕達は下敷きだ。何百トンもの重みに耐えられる程、防御魔法は堅牢じゃない。間違いなく死ぬ』
『な、なら転移魔法で……』
『無難だが、それも駄目だ。……強力な妨害結界がかかっている。転移の類の魔法は一切使えない』
『妨害結界って……!』

 それもロストロギアの影響なのだろうか。ふと考えて、はやてはそれは違うと結論付けた。彼女もクロノも、長距離用のトランスポーターでこの世界に来ている。妨害 結界の範囲と効力がどれ程の物かは知る由も無いが、転移魔法の類が一切使用出来ないとすれば、トランスポーターも使えないはずだ。
 答えは深く思案するまでもなく、勝手に浮かんで来た。
 誰かが、このビル崩壊の後に妨害結界を構築、展開したのだ。

『じゃあ、あの時ビルを壊したのも……』

 その『誰か』である可能性が高い。いや、それ以外考えられなかった。

『でも何の為に……』

 ビルを破壊してはやてとクロノを潰し、締め括りとして妨害結界まで施す。用意周到であり狡猾なやり口だった。

『……済まないはやて。僕の責任だ』

 クロノの謝罪がはやての黙考を遮る。
 はやては何故彼が謝るのか分からず、軽く混乱した。

『何でクロノ君が謝るの……?』
『……こうなる事は、何となくだけど予想出来ていた』

 悔やむようにクロノが言った。

『どういう……事や……?』
『……管理局の上層部の一部に、君やシグナム達に怨恨を抱いている連中がいる』

 知っている。
 闇の書事件は発生の度に多くの犠牲者を生んで来た。十一年前はアースラの同型艦『エスティア』が撃沈する直接的な原因、同艦の艦長を消滅の際の道連れにし ている。三ヶ月前は死者こそ出していないものの、相当な人数の武装局員に重軽傷を負わせ、尚且つ今では親友となったなのはやフェイトも傷つけてしまっている。
 闇の書は存在そのものが罪であり、呪いなのだ。喩え本来の姿である夜天の魔導書となり、管制人格が消えてしまったとしても、この事実は変えようがない。はやてはそれを 理解して、すべてを受け入れる覚悟で、シグナム達と共に贖罪の道を歩もうと思ったのだ。

『事件直後に比べれば、随分その数は減った。母さんやレティ提督、何より君達の頑張りの結果だ。でも、闇の書事件で家族を失った者は、そう簡単に納得は出来て いないらしい』
『………』
『今回の任務は……』

 一度言葉を止めるクロノ。溜息をつく声がした。

『……今回の任務は、君を事故に見せかけて殺害する為に、強硬派の中でも特に質の悪い連中が仕組んだ偽装任務だ』

 覚悟はしていた。それでも、『殺害』という言葉の出現に、はやては衝撃を受けずにはいられなかった。
 クロノははやての心中を察するように、言葉を選びながら続ける。

『事前にエイミィが情報を掴んでいたが、この任務が偽装であるという証拠が無かった。その上、相手は全員が佐官クラス。しかも相当な古株で、僕程度の執務官 が騒いだ所でどうにもならなかったし、母さんやレティ提督でも結果は同じだった。だから僕が同行したんだ』

 この世界に来た時、はやては異常なまでに辺りを警戒しているクロノに疑問を抱いたが、彼はそうして当然だったのだ。罠があると分かり切っていたのだから。

『そんな……無茶やでクロノ君……!』

 巻き込まれる危険性があったというのに。一緒に殺されてしまうかもしれなかったのに。

『無茶は分かっていたが、他に良い手が思いつかなかったんだ。フェイトやなのは、シグナム達は強硬派の根回しのせいで全員別で任務が与えられていたし、僕もユーノ と一緒に無限書庫で無茶な資料検索をさせられていた。僕ぐらいしかまともに動ける人員はいなかったんだ』
『……ばかや』

 震える声で言う。

『クロノ君、ほんとに馬鹿や。一緒に殺されてしもたら意味無いやん……!』
『だから済まないと言ったんだ。こうなる事は知っていたのに止める事が出来なかった。……恐らく今君が保護している犬も、強硬派が用意しておいたトラップの一つだろう。 君がそうした動物に弱いという事を知ってるから……』
『違う! そういう事を言ったんやない! 何で教えてくれへんかったんや!』
『……君に知られずに処理するつもりだった。同行したのは、君を守る為でもあったし、連中の証拠を掴む為でもあった。証拠があれば喩え相手が如何なる役職の人間 でも何とかなる。だから――』
『私は夜天の主、八神はやてや』

 我慢できず、はやては口を挟む。
 心地良さを与えてくれたクロノの気遣いと優しさが、今は腹立たしかった。

『この名前を継いだ時から、私は誰かから恨まれるのを覚悟してた』
『はやて……』
『シグナム達は三ヶ月前の事件の事を。私は夜天の主として、あの子達の罪と今までリィンフォースが重ねて来た罪を一緒に償う』
『………』
『恨みはちゃんと受け止める。それが私のやり方や。だから……だからそういう事はちゃんと話して。こんな形で終わらせられるのは、私は……嫌や』

 胸の中の犬を優しく抱き締めて、はやては言葉を切る。
 クロノは何も答えず、沈黙した。
 二人はしばらくの間、言葉を交わす事をしなかった。





 continues.





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