帰って来た彼は、見違えるほどに大人になっていた。
 最後に会った時。見送った時だ。あの時には頭一つ分ぐらいしかなかった身長差が、今では頭二つ分以上はある。背の低さという可愛らしいコンプレックスは無事に 解決出来たらしく、再会したばかりの時は笑顔でおめでとうと冷やかしてやったものだ。
 大人になる事で、まさに変身でもしたかのように変化するのは何も女性だけの専売特許ではない。男性も変わるものだ。
 そんな驚くような変化が、終わったはずの燻りを煽ってしまった。いや、終わったはずだと決め付けていた。

「………」

 見る場所も、見たい物もなく、はやてはただ当ても無く視線を彷徨わせる。
 教壇に立つ担任の教師の柔和な授業の声と、コツコツと黒板を走るチョークの音だけが耳に入って来る。でも、少しも記憶には残らない。まったく聞いていない。 関心も持てないし、黒板に書き込まれている内容をノートに写すべく握り締めたシャープペンシルは一ミリたりとも消耗してはいなかった。
 昼休みを目前に控えた四時間目だが、空腹も自然を覚えない。育ち盛り故に、この時間帯は腹の虫が激しく活動を開始するのだが、本日は完全沈黙を保っている。
 ふらりと首を巡らせるはやて。空を眺めいるのに疲れた訳でも、グラウンドでサッカーに興じている五年生に見飽きた訳ではない。
 静かな教室内を駆けた視界は、金髪の少女の所で止まる。
 フェイト・T・ハラオウン。もう二年以上の付き合いになる親友の一人。同性のはやてでも可愛いなぁと思わず抱き締めてしまいたい衝動に駆られる端正な少女だ。
 はやては溜め息をつき、頬杖をつく。
 あの忌まわしい事件が起こる前、二人は親友であると同時に色々な意味で好敵手だった。所謂『恋のライバル』という奴だった。
 争奪相手はクロノ・ハラオウン。当時は仕事を愛するザ・ワーカーホリックの鈍感少年。
 結局、はやては自分で淡い想いを伝える事が出来なかった。誰から聞いたのかは分からないが、クロノははやての気持ちに気付いていた。でも、気付いた時には、そ の隣にはもうフェイトが居た。だから、彼を送り出す時、今度会う時には『友達』として会おうと告げた。
 そう、友達だ。五歳年上の頼りになる異性の友達。ちょっと珍しい、何も知らない友達に話す時には少しだけ得意になって自慢げに話しても良いような、そんな関係。

「……友達、か」

 無意識に思いが言葉になってしまった。隣の席の子が不思議そうに見詰めて来る。はやては両手を降り、何でもないと囁いた。
 級友は視線をすぐに黒板に戻した。どうやら納得してくれたようだ。
 安心して胸を撫で下ろす。トクントクンと、少女の胸は驚くほどの勢いで鼓動していた。
 呟きになり、それが級友に聞かれてしまったのが恥ずかしいからだ。そう思って、自分を落ち着けようとはやては眼を瞑る。
 刹那、瞼の裏をクロノが過ぎった。

「!?」

 跳ねる心臓。それは甘酸っぱい痛みを伴うものだった。
 膨らみかけている小さな胸を強く握る。鋭い痛みが脳裏の映像を掻き毟り、頭の中から追っ払う。
 駄目だ。彼に――クロノにそんな感情を持ってはいけない。駄目なのだ。
 だって、もう相手が居るのだ。決まってしまったのだ。クロノの横には、もうフェイトが居るのだから。そこに割り込めるような間隙はありはしないし、そんな つもりもない。
 なのに、少女の小さな心臓はちっとも落ち着きを取り戻してはくれなかった。喘ぐように、自分の気持ちに嘘をつくなと、規則正しく脈動しながら無言の訴えを して来る。

「……あかんて、私……」

 自分でも聞き取れるかどうかという呟き。今度は級友も気付いていない。
 心の奥底から込み上げて来る感情は、本当は気持ちの良いもののはずだ。心地良い気持ちのはずだ。恋とはそういうもののはずだ。
 はやては胸を握るのを止めて、心臓の前でそっと握り拳を作り、それを抱えるように背中を丸めた。抑えの効かない感情を無理矢理叩き伏せるように。
 四時間目のチャイムはすぐに鳴った。





魔法少女リリカルなのは SS

Snow Rain

♯.2





 昼食は教室で摂る事になった。春先や秋なら定番は屋上だが、今は残暑も厳しい九月の中旬だ。サウナの中で弁当を食べる変わり者はそうは居ないだろう。

「今日は管理局は無いの、あんた達」

 アリサがなのはとフェイト、はやてを見渡して言った。彼女の膝の上に乗っている弁当箱はすでに空っぽになっている。

「ごめん、今日はちょっと……」

 と、お茶を飲み干して答えたのはなのはだ。

「私も。色々と溜まってるから」
「そっかぁ。また駄目なら仕方ないか」
「はやてちゃんは? 今日はお仕事お休みなの?」

 すずかが問うと、上の空だったはやてが眼を瞬かせる。

「え? あ、ごめん。何のお話や?」
「もう、ちゃんと聞いてなさいよ。管理局よ管理局。今日はどうなの?」

 はやての膝の上には、昼食を始めてから三十分以上も過ぎているというのに、未だに半分も消化されていない弁当箱が鎮座している。箸が進んだ形跡はまったく 見られなかった。

「はやてちゃん、何か調子でも悪いの? 最近、何だか食欲も無いみたいだけど……」
「ああ、大丈夫やてすずかちゃん」

 はやてがあははと笑う。三年近く前の冬も、心配するシグナム達にこうした偽りの笑みを浮かべて安心させたなぁと、頭の中に居る冷静な理性が感想を持った。
 すずかは柳眉を顰めながら、口を噤んだ。納得はしていない様子だが、彼女は他人を心配させるのを嫌うはやての性格を良く心得ている。言及しても効果は無いだろうと 踏んだのだ。
 なのはとフェイトも、すずかと同じように心配そうにはやてを見詰めている。
 はやては出し抜けに大きな声を上げて、片手を彼女達へ振った。

「大丈夫やって。最近あんまり眠れへんから、ちょっと船を漕いでるだけやって」

 見え透いた嘘だ。だが、何か言わないと体裁を繕う事も難しかったので、言うしかなかった。
 不満そうに見守っていたアリサが、ふんと鼻を鳴らした。

「まぁいいわ。何かあったら相談しなさいよ? はやても、なのはやフェイトと同じで、どうでもいい所で強情なんだから」
「……うん。まぁ、平気やけど、何かあったらその時はお願いな」

 気遣いの知れている親友に、はやては心から感謝する。強情だと分かって、何かをひた隠しにして悩んでいるのを見抜いていて、でも話してくれるまで決して無理強い をしてまで聞き出そうとはしない。程好い所で距離を保ち、静観するような立場を取る。
 本当の友達とは、変に友人面を引っ提げてベタベタとはしないものだ。

「そうしなさい。で、今日は管理局は休みなの?」
「うん。今日は特に何も無いで。なのはちゃんとフェイトちゃんは確かお仕事やったね?」

 肯く二人の親友達。

「そっか。はやて、良かったなら今日一緒に遊ばない?」
「うん、もちろんええで。あ、それやったら今日はリインも居るし、連れてえってもええかな?」
「もちろん! あの子が使う核ダムを今日こそ切り刻んでやるわ!」
「リインも腕上げるから、簡単にはいかへんと思うで?」
「そりゃこっちの台詞よ。じゃ、終わったらまずはやての家ね」

 束の間だが、はやては痛む胸もクロノの事も忘れて、友人達との他愛のない会話に興じた。



 ☆



 彼らを見る通行人の眼差しは好奇心に満ちていた。中には根も葉もない事実無根のあられもない妄想を抱き、『最近の若い者は!』と小さく吐き捨てている中年主婦 も居たのだが、事実を伝える術を持たないクロノはただひたすらに耐えるしかない。甲羅に四肢と頭を引っ込めて、外敵から健気に身を守る亀という爬虫類を思い出した。

「クロノクロノ! アイスが食べたいです〜!」
「さっきも食べただろう。我慢しなさい」
「ジュースが飲みたいです〜!」
「生憎、僕はこの辺りでトイレがどこにあるか分からないんだ。だから駄目だ」
「クロノはケチです! ちっとも優しくないです!」

 それでもリインフォースは笑顔を崩さす、クロノと繋げた手を嬉しそうに振り回す。
 こうしていれば、どこからどう見ても、無邪気で幼い少女そのものだ。複雑な魔導的技術を用いて設計、開発されたユニゾンデバイスの管制人格には見えない。
 子供の扱いは苦手だが、さりとて嫌いではないクロノは、そんな少女と共に海鳴の商店街を歩いていた。人目がどうにも気になったが、この道が聖祥小学校への 近道になっている。

「マイスタ〜♪」

 スキップをする度に、空色のジャンパードレスのスカートがふわりと舞う。一度八神家に寄って着替えさせたのだ。家にはシグナムが一人で留守を守っていて、 リインフォースを連れて来たクロノに深々と頭を下げて謝辞と謝罪を並べ立て、リインフォースの頭上に問答無用の拳骨を叩き込んだ。あの生々しい、骨の髄まで響きかねない 強烈な音は今も尚耳に残っている。やってはいけない事は身体の痛みを持って伝えて行くのがシグナムの教育方針のようだ。

「ほら。そんなに急ぐな、リイン」
「クロノも一緒に走るです〜」
「う、うわ!」

 当然というべきか、リインフォースは大泣きした。まるで超音波のような泣き声で、クロノは新手の広域攻撃魔法かと本気で心配してしまったが、もちろんそれは危惧 で終わった。
 リインフォースに引っ張られ、クロノはつんのめる姿勢で商店街を駆けて行く。時刻からして、そろそろ聖祥小学校は放課後を迎えている事だろう。はやてやフェイトを 迎えに行くには丁度良いタイミングと言える。
 シグナムの拳骨は相当効いたらしく、コブすら出来てしまった。しかし、コブまで出来るのかとクロノは密かに関心したのものだ。
 リインフォースは憤激冷め止まぬシグナムを嫌い、今こうしてクロノにくっついて、自分の最大の支援者にして庇護を期待出来る八神はやての迎えに出向いている。 子供は本能的に自分を守ってくれる存在を探すという。まさにそんな状態なのだろう。
 そう、リインフォースは子供だ。見た目は七、八歳ぐらいだが、実際には違う。四つん這いになって母親の乳房を求め、未熟で拙く、でも精一杯生きている赤ん坊 そのものだ。
 クライド・ハラオウンがあの事件で殉職した時、クロノは赤ん坊ではなかった。物心はついていなかったし、父親の顔すらほとんど記憶には残されていないが、あの 温もりは今も心の中で息づいている。それはこの先も変わらないだろうし、失う事も無い。
 だからなのか、はやてを無邪気に求め、上の空で居る事の多くなった彼女を助けたいと願い、後先考えずに行動しているリインフォースの気持ちが分かった。
 並んで歩けば、仲の良い姉妹のように映るだろうはやてとリインフォースは――母と子だった。
 引き摺られて歩くのはさすがに格好が悪いので、歩幅を早め、逆にリインフォースを追い抜かそうとする。

「速いですクロノ!」
「君とは身長差があるからな」
「卑怯です〜!」

 そのまま商店街を走り抜けた二人は、脇目も振らずに聖祥小学校に向かう。途中で放課後を示すチャイムの音が響いて来た。走りながら携帯電話で時間を確認 すれば、程好く最後のホームルームが終わった時刻である。
 なでらかな坂を登り、すでに校門から出て来た学生達の脇を横切る。最近は何かと物騒な事件も起きているので、子供を迎えに来ている保護者の姿もあちこちで見かけた。 こうなるとクロノの姿も溶け込むというものだが、さすがに保護者という風情には見えない。眼を光らせている教師に『ここに通う児童の兄です』と、何一つ偽りの無い 事実を伝え、並木道に屹立している桜の樹の下に立ち、後から息を切らせて追いついて来たリインフォースを迎えた。

「遅いぞ、リイン」
「ク、クロノが速いんです。大人気ないです!」
「残念だが、僕はまだ十七だ。こちらの世界じゃまだ未成年という分類に属するらしい」
「屁理屈です!」

 憤るリインフォース。諌めるように頭を撫でてやると、日向ぼっこをする仔猫のように喉を鳴らして、脚に擦り寄って来る。
 面白いようにころころと感情が移り変わる少女だなと、クロノは思った。感情豊かもここまで来ると清々しい。
 十分ほど待つと、お喋りをしながらはやて達が校門から出て来た。彼女達は桜の樹の下で手を振っているクロノとリインフォースを見つけ、小走りで駆け寄って来る。

「クロノ!」

 ばふっとフェイトが抱き着いて来た。

「おかえり、フェイト」
「どうしたの? 今日はお迎えとか、何も聞いてないけど」
「ああ、リイン絡みでね」
「マイスタぁ〜!」
「ちょ、リイン!?」

 熱烈な歓迎は別の方向でも起こっていたようだ。ぴょんと跳ねたリインフォースが、容赦なくはやての胸に飛び込む。細い膂力しかない十二歳の少女は自分より僅かに 小さいだけの子を支え切れず、その場で痛そうに尻餅をつき、クロノとフェイトの見慣れた抱擁に呆れ顔だったアリサ達を驚かせた。

「シグナムがぶったです〜!」
「何やこのでっかいたんこぶ!? リイン何したんや!?」
「別に何もしてないです! 管理局に行って迷子になってクロノにパフェをご馳走になっただけです!」

 シュヴァルツェ・ヴィルクング発動。クロノは再び情け容赦の無い打撃音を耳にした。

「マイスターもぶったです〜!」
「そらシグナムかて怒るわ。もう、リインはまだ子供なんやから、一人で管理局に行ったらあかんて言うてるのに」
「だって〜!」
「だっても何もない! 今日は晩ご飯抜きや!」

 リインフォースが一体誰を心配して勇猛果敢な行動に出たかを知る由もないはやては、毅然とした態度で叱り飛ばすばかりだった。

「はやて」

 こうして声をかけるのは、彼女と共に父の墓参りに行った時ぶりか。少しだけ緊張した。
 それははやても同様だったようだ。一瞬だけ肩を震わせ、覗き上げるように上目遣いで見詰め返して来た。

「リインは君が心配で管理局に行ったんだ」
「私が……?」
「ここ最近、君の様子が……」

 言葉が止まる。いや、言うべき台詞は頭の中にあったし、伝えたい思いもちゃんと理解している。でも言えなかった。
 喉が動かないのだ。言葉を紡げるはずがない。クロノは当惑しながら、自らの不甲斐なさを呪う。
 知っているのだ。はやての様子がおかしい原因を。墓参り以降、特にそれが顕著なのも。クロノは全部知って、その上でどうすればいいのか、どんな行動を執ればいいのかも 悟っていた。

「私の様子が……何や?」
「……何でもない」

 なのに、何もしない自分。
 何も出来ない事実を静かに受け止めて傍観者を演じざるを得ない彼女の家族達に、何よりもはやて自身に、クロノは強い罪の意識を抱いてしまう。
 手を拱かず、勇気を持ち、気持ちを奮い立たせ、ほんの一言二言を面と向かって告げてやれば、それでもどかしい思いをする人間は減るはずだ。少なくとも、リインフォースや シグナム達家族は傍観者から脱する事は出来る。
 でも、はやては違う。
 彼女はきっと悲しむ。落ち込み、きっと――泣いてしまう。
 クロノのしている事は、問題を安穏な未来へ先送りにしているただの逃亡行為だ。それは誰よりも彼自身が理解していた。

「クロノ……?」

 繋いだ手の先には、一番守りたいと思う少女が居た。
 微かな強張りを見せてしまったクロノの手。それを分からないほど、この少女は鈍くはない。

「……何でもないよ」

 フェイトの手を握り直して、クロノは微笑んだ。出来る限り自然に。こういう時、嘘をつくのが苦手な自分を恨めしく思う。

「リイン、これからはあんまり無茶はするんじゃないぞ」
「はいです。またチョコレートパフェをご馳走して下さいです!」

 天真爛漫な微笑み。それが小さな鈍痛となって胸を苛む。

「こらリイン!」
「痛いですマイスタぁ〜!」

 そんな痛みを顔に出す事もなく、クロノはかしましい少女達を見守った。
 やはり――自分は咎人なのか。偽りの笑顔の下で漠然とそう感じながら。



 ☆



 アリサとすずかが帰ってから少しして、八神家の家族達がポツリポツリと戻って来た。一番遅かったのは、非番で近場の剣道道場に顔を出していたシグナムだった。
 夕食は久しぶりに家族が全員揃っての華やかなものとなった。支度には医療課の出向から戻って来たシャマルが途中参加して、冷蔵庫の残り物さえ鮮やかな料理に変 えてしまった。この家に来た時の拙さやイージーミスの面影など、もうどこにも無い。
 はやてとシグナムの憤怒もこの時には矛を収めていて、リインフォースも無事に食卓を囲み、空腹の胃を満腹にした。原動力をはやてからの魔力供給に依存している 彼女だが、ヴィータ達同様に食物を摂取する事で微妙ながら魔力生成を行う事も出来る。完全な自給自足にはほど遠い上に食事が無くても活動には支障は出ないのだが、 リインフォースは何よりはやてが作る料理の数々が好きだった。

「最後の唐揚げはリインのです〜!」
「させるか! あたしのだあたしの! 姉に譲れ!」
「いーえ! お姉ちゃんなら我慢して妹に譲れです!」

 管理局のやりとりなど億尾にも出さず、箸同士で激しい火花を散らす。
 そんな喧騒を最後に夕食は幕を下ろして、後は就寝までのまどろみのような時間が流れた。
 後片付けを終えた頃には、程好く風呂が沸いて、リインフォースはいつもの二人――はやてとヴィータと共にスキップして脱衣所へ向かう。

「二人共、脱ぎ散らかしたらあかんで〜」

 母親のような言葉も、今となっては言われるまでもない。綺麗に折り畳み、籠の中へ。
 湯船は広く浅い。なのはやフェイトの家に何度か泊まりに行った時、その構造の違いに少しだけ驚いたものだ。
 どうしてはやての家の風呂は他とは違うのか。素朴な疑問だったが、リインは誰にも訊かなかった。根の深い事柄でもなかったし、何より、リインははやてと一緒に 広々を入れる湯船が好きだった。

「今日はリインがマイスターのお背中を洗います〜!」
「あ、汚ねぇーぞリイン! この前はお前だっただろう!?」
「ほら、二人とも喧嘩したあかんで」

 そう言って、はやては幸せそうに笑っていた。湯煙の向こうで、リインは確かに大好きな主の笑顔を眼にした。
 家に帰って来てから、はやてはずっと笑っている。笑顔で居る。家族との触れ合いを楽しんでいる。

「………」

 どこでもない場所を見詰めてもいない。
 寂しげにもしていない。
 笑みを絶やしたりしていない。
 リインフォースは胸の中の懸念が霧が晴れるかのように消えて行くのを確かに感じていた。何が原因で、どうしてそうなったのかは分からないが、今のはやては、 クロノが戻って来る前のはやてだ。破顔一笑で、優しさで包んでくれる暖かなはやてだ。
 もう何も心配する事は無い。リインフォースのはしゃぎっぷりはいつにも増して大きくなる。

「今日のリインはいつもより嬉しそうやな」

 肩を並べて三人でお湯に浸かっている時、はやてが言った。

「はいです。今日は色々ありましたけど、リインはとっても楽しかったです」
「ん、良かったなぁ。でも、もう一人で本局に行ったらあかんで? あそこはホンマに広いから、ちっちゃなリインは間違いなく迷うってしまうから」
「それはもちろんです! もう絶対に一人じゃ行きませんです!」
「ほら指切りや」

 はやてが小指を差し出す。お湯に濡れて暖かくなった小さな指に、リインは満面の笑みで自分の小指を絡めた。横ではヴィータが羨望の視線を送っているが、彼女は それ以上何もしては来なかった。ただ、指切りの後にはやてに抱きつくと、さすがに文句を言われてしまった。

「嫌です〜! 今日はいっぱい泣きましたから、マイスターの抱っこパワーを充電しなきゃ駄目なんです〜!」
「抱っこパワーならあたしも最近足りてねぇーんだ! はやて、あたしも!」
「ヴィータちゃんは寝る時にいっつも抱っこパワー充電してるじゃないですか!」
「ぐッ……!」

 騒がしい二人が面白いのか、はやては眼を細めてクスクスと笑っていた。
 もっと笑って欲しい。
 大好きなヒトの笑顔をもっと見たい。
 リインは心からそう望んだ。
 渇望して、求めた。
 主の幸せを願うのはデバイスとして当然の事であり、デバイスの究極的な生きる意義である。ユニゾンという稼動数が極々限定されている特異なデバイスの管制人格 たるリインフォースは、その幼さ故か、特にその思いが強かった。
 強固にして純然。そう思い、願い、望む心に疑問は発生しない。するはずが無かった。

「マイスター」
「何や、リイン」

 望む先にははやての微笑みがある。
 その笑みをより輝かせようと思った管制人格の少女に何の罪は無い。その口から次に出て来る言葉も、無邪気な思いから来るものだった。

「クロノはとっても優しかったです」

 天井から落ちて来た水滴が、はやての頭上で弾けて消えた。『クロノ』という名の意味を心の奥底に落とし込むように。

「そう――やね」
「はい。今日はずっとクロノに遊んでもらったような気がします」
「それは良かったなぁ。でも、もうチョコパフェはあかんで?」
「もちろんです。もう拳骨はコリゴリです」

 はやての笑みは崩れない。でも、何かが変わったような気がした。影が差し込んだ、というべきか。
 何よりも、リインフォースは胸の内に針に突付かれたような僅かな痛みを感じていた。胸の中心――丁度、リンカーコアがある場所から、その鋭い痛みは発せられている。
 何故だろう。どうして胸が痛むのだろう。大好きなはやての温もりを感じて、その微笑に幸せを感じているはずなのに。
 ヴィータは口を閉ざしている。膝を抱いて、お湯の中でじっとしている。その眼差しは、朝の共同オフィスでデスクワークに追われていた時と同じだった。
 リインフォースには分からない感情の流れが、姉のような少女の瞳には渦巻いている。

「ヴィータちゃん?」
「リイン、上がるぞ」

 簡潔に、どこか刺々しい声を残してヴィータが湯船から出る。ペタペタと濡れたタイルの上を歩いて、赤髪の少女はバスルームを出て行った。
 残されたリインフォースは怪訝に思うばかりだった。何かいけない事を口にしてしまったのだろうか。クロノの名前が出るまで、あんなに楽しそうにしていたのに。

「……ヴィータちゃんはクロノが嫌いなんでしょうか……?」
「そんな訳無いで。ヴィータはちょい素直やないだけや」

 それは分かる。本局でも任務でも海鳴でも、クロノと話している時のヴィータは不機嫌ではないし、逆に彼を好いているように思える。
 ならどうしてあんな態度を取るのだろう――。
 はやてが湯船から出ようと立ち上がった。お湯と共にリインフォースの小さな身体が揺れ動く。

「リイン、上がるで」
「マイスター」

 お湯に浸かったまま、リインフォースが言った。
 湯煙が濃くなる。濃霧の中に居るかのように、すぐそこに居るはずのはやての顔が見えなくなっていた。

「マイスターはクロノが好きですか?」

 声が反響する。
 こぼれたお湯が水道管に流れて行く音が残響となり、虚空に消えた。
 はやての顔はやっぱり見えない。リインフォースは湯船から出て、彼女に歩み寄ろうとした。
 なのに、それが出来なかった。胸の――リンカーコアの鈍痛が唐突に牙を剥いたのだ。リインフォースにとって、リンカーコアは心臓に相当する重要な機関である。 ドクンという痛みに、言い知れない恐怖を感じた。

「リイン、はよう上がるで」

 柔らかな声がして、同時に痛みが引いた。潮が引ける海のように。
 戸が開いて、湯煙の向こう側にあったはやての影が遠のいて行く。
 リインフォースは慌てて彼女を追った。置いていかれる錯覚がそうさせたのだ。
 クロノが好きどうかという質問の返答は結局聞けなかった。
 ただ胸の痛みだけが、消える事の無い小火のように、ずっと胸の奥底に――リンカーコアに宿っていた。



 ☆



 その日の業務は簡単なものだった。
 雑事を一つ二つ終わらせた後、幾つかの事件の報告書を纏めて、それぞれの担当課に提出。捜査会議に出席し、二十分程度の論議。それだけである。
 クロノは明日の業務準備を終えて、パソコンの電源を落とした。帰り支度を済ませて出口で待っているフェイトの下へ急ぐ。
 一緒に帰れる時は、こうして二人で帰宅するのが暗黙のルールとなっていた。
 転送ポッドへ通じる通路を歩く。袖と袖が触れ合うくらいの距離。さすがにアースラの艦内なので手を繋ぐと言った行為は自粛しているが、時折、フェイトが 指を引っかけて来る。
 今日が、その『時折』という日だった。
 フェイトの細い人差し指が、どこか慎重な仕草でクロノに絡まって来る。
 そんな稚拙で健気な行為を、クロノは注意をしようと思った。アースラで制服に袖を通している限りは時空管理局局員である。しかも場所は母艦。一瞥で公私 混同が分かるような行為は慎むべきだった。だが、そう言おうと痛切に思えば思うほど、指を通して伝わって来る柔らかな体温を感じずにはいられなかった。だから こそ、言えない。自分も時間が許すのなら、ずっと彼女と触れ合っていたいから。
 クロノは意識して前に眼を向けて、絡まっているフェイトの指を軽く握った。僅かに驚くような感触が返って来た後、手は握り返される。

「フェイト」
「なに?」
「……いや、呼んでみただけだ」
「そう?」

 そんな何でもない会話が楽しかった。
 転送ポッドに向かうまでは誰とも会わなかった。今帰れば、海鳴では丁度遅めの夕食時と言ったところだろう。留守番を務めているアルフを長く待たせる訳にはいかない。 飢えた彼女の凶暴性はなかなかのものである。

「クロノ」
「ん?」
「……ううん、呼んでみただけ」
「そうか?」

 義理の兄と妹ではなく、こうやってもっと深い仲として名前を呼び合える現実。
 今では当たり前になってしまったこの現実も、まだ始まってから数ヶ月しか経っていない。それなのに、もう何年も、それこそ当たり前のように、彼女との時間を 享受しているような気がした。服役していた次元世界の二年は気が狂わんばかりに長かったというのに。
 あの二年。考えていたのはフェイトの事ばかりだった。
 当然だった。想いを通じ合った直後だったのだから。悲しませてばかりで、最後まで彼女を傷付けて悲しませ続けていたのだから。
 そんな生活の中で、ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ少女が居た。
 幸福なのか、それとも不幸なのか、罪と罰に彩られたロストロギアの最後の主に選定されてしまった天涯孤独だった少女。

「フェイト。はやてだが、元気なのか?」
「元気なのかって……今日、クロノも会ってるじゃない。たまにぼーっとしてる時もあるけど、元気だよ?」

 この二年あまりで、はやては多くの闇の書事件の被害者遺族の下を回ったという。
 シグナム達ははやてを支えて、管理局の任務に従事し、贖罪を続けている。
 彼女達を憎悪している局員達も随分と形を潜めているとも聞いている。事件再発を声高に叫んでいた強硬派閥ももう無いに等しい。
 二年。春先の八神はやて殺害未遂事件を入れれば、二年と半年あまり。
 その決意と思いと同時に、はやてを守ると宣言をしてからそれだけの時が経ち、様々な事が起こっていた。
 あの時は、彼女もまだ九歳だった。復学もしていなくて、深い悲しみを味わったが、決して膝を折る事もせず、ひらむきに闇の書の罪と罰を償おうとしていた。
 そんな彼女を、クロノは自らの宣言とは裏腹に、見守ってやる事が出来なかった。

「はやてがどうかした?」
「……いや、元気ならいいんだ」

 二年前の見送りの時、はやてには守護騎士という本当に頼りになる家族が居ると、抱えた不安の中で思った。それは嘘偽りの無い事実である。
 なら、今、この心の奥底に蠢いている懸念は何だ?
 払拭したはずの不安があるのは何故だ?
 この恐ろしさにも似た感情は何なんだ?

「リインにはやてに元気が無いって聞いたんだ。会う機会が少ないから、どうしてるのかなって思って」

 その原因を思えば、渦巻く複雑な気持ちの群に、新たに一つの感情が加わる。
 罪の意識だった。
 ざらついていて、逃げ出してしまいたい、背を向けて眼を閉じて耳を塞いでしまいたいと思う。
 守ると言ったのに。
 逝ってしまった大切な家族の想いを継いで、今を必死に生き、小さな身体で大き過ぎる過去の罪を償おうと、この先の長い人生の大半を犠牲にしようと決意した少女を、 その背中を支え、時には押してやる事を約束したのに。
 思いも決意も――守ると言ったのに。

「………」

 クロノはフェイトと繋いでいた掌を見詰めた。
 大した力も無い、眼につく少なからずの人々を守る事しか出来ない英雄にはなれない掌。
 英雄になんて興味は無かった。そんなものは人間の心のどこかに潜んでいる願望や渇望が言葉になっただけだ。
 人間は非力だ。長いようで短い『生きる』という現実の中で、一握りの人しか守れない。そして、その中でも本当に大切な人は『一人』しか作れない。
 不器用で、卑怯で、稚拙な生き物。それが人間だ。
 その中でも、クロノは自分が最も劣っていると思っている。いや、確信している。
 本当に守りたいと思う人が分からなかったあの時。壮大な夢を心のどこかで必ず叶えると儚くも思っていたあの頃。
 クロノは己の決意を反芻する。

「クロノ?」

 本当に守りたいと思う少女が眼を瞬かせている。
 秤にかけるつもりなんて無い。だが、二年と半年前。あのビルの屋上で、こう訊ねられた。


 フェイトと次元世界。どちらかしか助けられない状況になった時、どちらを選ぶのか。


 フェイトを選ぶと、クロノは答えた。つまり、それ以外の者達は切り捨てるという事だ。
 自分の決意を、自らに課した意思を、彼は曲げるつもりはない。揺らぎもしないし、後悔も無い。
 それでも、この選択に罪の意識を感じずに居られるほど、クロノは平然とした人間ではなかった。

「……はやては……僕を許してくれるだろうか?」

 その呟きは誰にも拾われる事もなく、虚空に消えた。





 continues.





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