声が聞こえた。
 男の声で、語りかけるような声音だった。

『もし聞こえているなら……そのまま、聞いて欲しい』

 沢山の感情が入り乱れる声。
 慈愛と寂寥、そして後悔。たったの一言から沢山の気持ちを察する事ができた。
 意識が揺さぶられる。散らかった部屋のように散乱していた意識が一つになって行く。
 答えたかった。でも、言葉を発する口が無いので何もできない。
 いや、口だけではない。自分の輪郭すら無かった。
 男の声が続けた。

『好きだ、はやて』

 それは、いつか待ち望んだ言葉。
 でも、今は違う。違うのだ。そう、絶対に違う。違わなければ――いけなんだ。
 そんな風に思えば思うほど、意識が疼きのような痛みを発して声も無く騒ぎ、喚く。
 自分は自分に嘘をついている。そんな現実に直面してしまうのだ。
 違うと思い込みたい。それはもはや願望だった。自分をこれ以上傷付けないようにする為に無意識にやってしまっている現実逃避だった。
 本当は今も渇望していた言葉だったはずだ。
 独占したいと願った感情だったはずだ。
 ずっと抱き締めていたい想いだったはずだ。
 二年前のあの時から、初恋が失恋に終わった日から心中に押し込めた。蓋をして理性という名の鍵もかけた。そのままひっそりと息絶えてくれる事を願った。
 そんな淡い気持ちは、彼が帰って来たあの日に勝手に表に出て来てしまった。
 駄目なのに。
 彼の側には、もう別の子がいるのに。
 自分が入り込める間隙なんてあるはずがなのに。
 恋愛感情を抱くだけでも罪なのに。
 想っても自分が傷付くだけなのに。
 それなのに、どうして嘘をつくのか。
 『私が好きだ』と虚言を吐くのか。
 嬉しくないはずがない。でも、それはどんな辛辣な言葉よりもずっと鋭い刃を持っている事に彼は気付いているのだろうか。
 不器用でも暖かい優しさを持つ彼は知っているのだろうか――。

『友達として、僕は君が好きだ』

 耳にではなく、意識に直接届いた声は少しだけ強張っていた。


 友達として――好き。


『君だけじゃない、なのはだ。エイミィも、シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、友人として僕は彼女達が好きだ。母さんやアルフも家族として 愛してる。遺憾だが、ユーノも好きだ。僕を支えて、今日まで友人でいてくれた者達全員が僕は好きだ』

 彼は必死だった。

『でも、フェイトに向ける好きという気持ちとは……違う』

 必死に言葉を操り、何かを伝えようとしていた。

『僕が女の子として好きになったのはフェイトだから。あの子だけだから』

 それが何なのか、もう分かっている。
 彼の口から聞きたいと言えば嘘になる。傷付くのが嫌で半ば逃げ出していたぐらいだったのだ。
 しかし、耳を塞ごうとは思わなかった。
 二年前のあの時にちゃんと伝えていたのだ。初恋が失恋に終わったと。彼に直接に伝えたのだ。でも、気持ちは小火のように燻っていて胸を苛んだ。
 何故か。彼から――クロノから直接聞かされていないからだ。その声と不器用な言葉を使って、きっぱりと断られていないからだ。
 だから聞かなければならない。本当は聞きたくはない言葉を、でも自分のこの気持ちに決着をつけて拭い去ってしまう為に。

『僕ははやての気持ちに応えられない。ごめん、はやて』

 最初の言葉と同じように、沢山の感情が滲み出る声。
 でも、一つだけ断ち切られている感情がある。
 後悔だった。断言の中に、それだけが無かった。激しい懊悩が見え隠れしているが、そう告げた事に後悔を覚えている様子は無かった。
 自分の気持ちに結論を出す事ができず、彼も傷付けてしまった。今度会ったら埋め合わせをしなければならないだろう。

「それはお互い様かもしれへんけどなぁ」

 苦笑が込み上げる。そこでようやく気付く。
 声が発する事ができるようになった。





魔法少女リリカルなのは SS

Snow Rain

♯.5





 長身のリインフォースが茫然と佇んでいる。何が起こったのか分からない様子で、彼女はクロノを見詰めていた。
 その視線を跳ね付けようとはせず、クロノは両眼を伏せた。

「リイン、君は僕がどんな人間に見える?」
「え……」
「はやてやシグナム達から沢山聞かされると思う。でも、君と僕がこうして互いの名前を呼び合うようになってから日は浅い」
「………」
「君のその眼で見た僕はどんな人間だ?」

 冷徹にも感じられた穏やかさを誇っていたリインの表情に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。

「優しくて……暖かい人です」

 確認するように少女が言う。クロノは思わず苦笑した。

「それは光栄だ」
「そうです、クロノは優しくて暖かい人です。なのに、それなのに……どうしてマイスターを好きだって言ってくれないんですか!? どうしてマイスターじゃ駄目 なんですか!?」
「……今言った通りだよ。僕が好きなのはフェイトだ。はやてじゃない」
「だからどうしてなんですかッ!?」

 少女の悲痛な叫びが果ての無い闇の中に木霊した。大きな瞳から溢れた大粒の涙が頬を伝い、足元にポツリポツリと落下して行く。見上げれば肩が震えていた。 それが悲しみの結果なのか、怒りの恩恵なのか、それは分からない。

「駄々っ子は嫌われるぞ? 君の姉もそう言われていた」
「駄々っ子はクロノじゃないですか! どうして……何でマイスターを幸せにしてくれないんですかッ!」

 蒼い髪を振り乱してリインフォースが言った。甲高い悲鳴だった。

「僕は正義の味方でもなければ映画の中のヒーローでもない」

 ありのままを口にする。

「一握りの人しか守れず、たった一人の女の子しか幸せにできない。それすらも多分難しい」
「だったら……!」
「だから!」

 穏やかな表情からは想像もできない怒鳴り声。

「だから……僕はフェイトを選んだんだ」

 誰かを好きになると沢山の気持ちが一度に雪崩込んで来る。
 時に嬉しくなり、時には悲しくなる。相反する感情が入り乱れて、嫌な出来事にも直面する。
 その中で一番に願うのは、好きな人の幸せだとクロノは思う。
 その人が幸せなら他には何も望まない。その人が笑顔でいてくれるのなら何でもできるだろう。かつては『こんなはずじゃない人生』を強いられる人々総てを救いた いと夢物語を願い、一番守りたい人が曖昧だった自分に、フェイトが理論や言葉だけでは説明のつかない気持ちを教えてくれた。

「リイン。君ははやてが好きか?」
「はい」
「それはこの先もずっと変わらないか?」
「当たり前です。リインが一番好きなのはマイスターです。変わるはずないじゃないですか……!」

 誤記が荒くなる。常識を問われたかのように、リインフォースはクロノを睥睨した。

「なら……僕の気持ちも分かるな?」
「クロノの、気持ち?」
「君がはやてを一番に愛しているように、僕もフェイトを一番に愛してる」

 物事に順位をつけなければならない現実に苛立ちを覚える時はある。もっと器用に動けないものかと考える時もある。
 でも、クロノ・ハラオウンはこういう人間なのだ。
 こんな自分を、守りたいと願った大切な人達は受け入れてくれている。認めてくれている。喜んでくれている。
 だから、自分は迷わずにこの道を歩いて行こうと思う。

「僕のこの気持ちは変わらない。喩え何があっても、死ぬまで変わらないんだ」

 誰も傷付けたくはない。親しい者達はずっと守っていきたいと願う。でもそれは叶わない願望だ。
 誰かを好きになるという事は、誰かを傷付けるという事だ。
 フェイトを好きになって、はやてを傷付けた。
 フェイトを笑顔にして、はやてを悲しませた。
 昔の自分ならどれだけ悩むか想像もできない。今も本当にこれで良いのか疑心の気持ちは少なからずある。
 でも後悔は無い。それが誰かを好きになって、幸せにしたいと願う事なのだから。

「………」

 リインフォースは何も言っては来なかった。爪先を見詰める瞳を窺う事はできず、伏せられている表情がどうなっているか分からない。

「……クロノがフェイトを好きだっていう気持ちは……分かりました」

 搾り出すような声音。

「でも」

 リインが顔を上げる。

「やっぱり……リインはマイスターに笑って欲しいです。心の底から……笑って欲しいんです」

 笑顔とも苦悶とも分からない表情だった。
 諦めなければならないのに、心のどこかで何かに縋っている。無理なのに欲している。
 シグナム達守護騎士と家族になる前のはやてが浮かべていただろう顔だった。
 そんなものは見たくなかった。
 まだ幼い心で必死に考えたのだろう。震える唇を噛み締めて涙を堪えている様相は、クロノの心に容赦なく小波を立てて行く。
 この一途な少女はどうすれば心を穏やかにしてくれるのだろうか。気の効いた言葉なんて物は何も浮かんでは来ないし、巧い機転の利かせ方などは自分が苦手 とする分野の一つだ。
 少女の嗚咽のみが暗闇に響く。クロノに懊悩する以外にするべき事は無いが、徐々に焦燥心だけが募って行った。
 リインフォースを救いたいが、現実には時間が足りない。彼女の言葉が事実だとすれば、悪夢の渦中にいるフェイトとなのははもう限界寸前のはずだ。これ以上の 精神的打撃は彼女達を破壊してしまう。悩んでいる時間すら惜しいのだ。
 ふと、呆れた声がした。

「そんなに泣いてばっかりやったとは思えへんけどな、私」

 肩越しに振り返る。

「ごめんな、クロノ君。私とリインが迷惑かけてしもて」
「はや――て」

 八神はやては笑っていた。悪戯をした子供に怒れるに怒れない、そんな困り果てたような笑顔で、彼女は佇んでいた。

「マイスター」
「リイン、今度のおいたはちょっと眼ぇ瞑れんで」

 リインフォースに近付こうとするはやて。その手を、クロノが掴んだ。
 主の幸せを何よりも願い、リインフォースはこの事件を起こした。手段は決して褒められるものではなかったが、誰かの幸せを思う行動だったのだ。その思いだけは 否定して欲しくはなかった。
 だが、はやては足を止めない。掴んだはずの細い手首は幻であるかのように実体を失い、クロノの手は空を切った。

「大丈夫。リインを怒る気はあらへん」
「………」
「リインの暴走は繋がってる私がちゃんとしてなかったせいや」
「それは……」

 元を正せば自分が――。そう動こうとする唇に、はやてが人差し指を押し付けて来る。

「これは私やクロノ君、フェイトちゃん達皆の悪い癖やと思うけど、何か起こったら全部自分のせいにして背負い込んでまう」
「しかし、僕が自分の気持ちをしっかり君に伝えていれば――!」

 こんな事にはならなかった。それは紛れも無い事実だ。自分に好意を抱いてくれた少女を、喩え仕方が無かったとしても悲しませたくはない。泣き出してしまう 少女の顔なんて見たくない。そんな現実から逃げ出して、問題を先送りにしていたのは自分だ。

「でも、クロノ君がフェイトちゃんを選んだのは二年も前に分かってた事や」

 そう、はやては分かってくれているとずっと思っていた。

「今度会う時は友達同士。私もそう思ってたんやけど……なんや、自分の気持ちは巧く誤魔化せんな。シグナム達にはもうとっくにバレてたみたいやし」
「……すまない」
「それ、二年前にも聞いたで? で、私はこう言ったはずや」

 はやてが笑う。

「クロノ君が謝るのはおかしいよ。私が勝手に熱上げてただけなんやから」
「………」
「ほら、いつまでもヘタレてる場合やないでクロノ君。フェイトちゃんとなのはちゃんがちょう拙いわ」

 はやてが見遣った先では、変わらない悪夢が展開されている。少女達は疲弊し尽していた。悲鳴を上げる事も、苦悶の表情を浮かべる事も諦め、ただなされるがままに 破滅的な暴力に晒されている。

「リイン、まず二人を解放して」
「……いや、です」

 顔を伏せるリイン。握り締めた拳が震えていた。

「どうしてや?」
「マイスターは痩せ我慢してます! 繋がってるリインには分かります! 言えばいいじゃないですか、クロノが好きだって!」
「……でも、リインは分かったはずやろ? リインが私を一番に好いてくれてるみたいに、クロノ君がフェイトちゃんを一番に好いてるって」
「分かってます! でも、でもリインはぁ……!」

 一度はクロノの言葉で納得しかけた少女は、しかし、やはり割り切る事ができなかったのだろう。
 未熟なリインフォースの精神は、成熟しつつあるはやての精神と繋がっている。はやてがこうして実体を持って現れたという事は、そのラインがより強固になり、 この『闇の書の夢』の空間構築にも綻びが生まれているのかもしれない。
 今のリインフォースは凄まじく不安定な存在なのだ。元よりユニゾンデバイスは、その運用ノウハウが記録としてほとんど残されていない。人間と同様に思考し、 人格を有する以上は多くのシステム的欠陥――バグを抱えているはずだ。様々な葛藤と矛盾に晒された結果、処理し切れないバグが発生しているのかもしれない。

「はやて」
「分かってる。システム管制の半分は私に戻ってるけど、あの夢はリインが制御してる。私の力じゃ止められへん。でも」
「でも?」
「今、結界を解除してアースラに応援を呼んだ。もう少しで補助魔法のエキスパートが来てくれる」

 補助魔法のエキスパートと言われて、即座に頭に浮かんだのはシャマルだった。古代ベルカ式の補助魔法を自在に操作できるのは、古代ベルカを守る聖王教会にも ほとんどいなかった。

「シャマルがもう動けるのか?」
「残念やけど、守護騎士システムはリインの統括。まだ取り返してへん」

 という事は、補助魔法のエキスパートとは一体誰の事だ。
 疑問を口にしようとした時、クロノは自分の身体が淡い魔法光に包まれている事に気付いた。その術式から、即座に転移魔法の一種だと悟る。

「はやて!」
「クロノ君はフェイトちゃんと助けに行ってあげて。なのはちゃんにはユーノ君が行くはずやから」
「ユーノが……!? 君はどうする!?」

 補助魔法のエキスパートというのは、つまり彼の事だ。

「大丈夫や、リインのお母さんは私やで? それに、困ってる女の子を助けるのが男の子の役目のはずや」
「っ……! なら、君は誰が守るんだ……!」

 この強くて弱い少女を一体誰が守るのだ。

「……私は守られる側やない、守る側や」

 返す言葉は無かった。

「ううん、違うな。クロノ君も守られてるよ。だって、クロノ君二年前に言ってたやないか、フェイトちゃんに」
「……ああ、言った」

 崩れてしまいそうな愛する少女に、クロノは確かにこう言った。

「……弱い僕を守ってくれ」

 自分の弱さに気付いて、過ちを取り返そうとして。弱い自分を認めて、あの儚い少女と一緒に歩きたくて、そう言った。
 人は自分独りの足で立って歩いていると思って、その実、必ず誰かに支えられている。そして、誰かを支えて守っている。
 それは愛する人であり、愛する家族であり、愛する友人だ。

「人は誰だって守って守られてるんよ」
「………」
「でも、男の子は女の子を守らなあかん。これは世界の鉄則や」

 はやてが断言すると同時に、転移魔法が発動態勢に入った。見遣った腕が半透明になり、身体が風景に同化して行く。
 すぐにでも飛んで行きたいという気持ちはある。その中でクロノは自問自答する。
 このまま行ってしまってもいいのか。強がって、無理をしている女の子をそのままにして、行ってしまってもいいのか。
 それを口に出す前に、はやてが言った。

「これが終わったら……あの喫茶店に一回だけ付きおうて。二年前に約束してまだやったやろ?」

 服役先の次元世界に行く前、クロノとはやてはそんな約束をしていた。デバイス暴走事件が苛烈さを増す直前に二人で行った、はやての両親が好んで足を運んでいた という小さな喫茶店だ。ここに戻って来てから管理局への復帰関係やら何やらで、まだ果たしていない約束だった。

「フェイトちゃんが怒りそうやけど、何とかしてや、クロノ君」

 結ばれたというのにあの少女の独占欲はまだまだ健在だ。逆に酷くなっている時だってある。彼女が納得するように説得するのは骨を折るかもしれない。

「……何とかする」
「約束やで?」
「ああ。だから……リインを頼む」

 はやてが消える。いや、違う。クロノが消えたのだ。
 転移魔法が発動する。闇の世界から一人の青年が消え、二人の少女だけが残された。



 ☆








 continues.





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