何も無い空間を、クロノは何もせずに漂っている。いや、知覚できない慣性に身を任せているというべきだろうか。転移魔法を行使した時と似て非なる感覚ではあったが、 そんな事で逐一慌てていては身が持たない。この世界はリインフォースが創り出した虚構なのだから。
 はやてを信じるなら、この流れの先に必ず出口がある。そこに到達した瞬間からが勝負だ。懐に手をやると、冷たい金属の感触があった。待機形態となったS2Uと デュランダルである。リインフォースに拘束された時に失っていたが、はやてが戻してくれたのだろうか。
 二機を抜刀して構築していた思念通話の術式を補強し、増幅。受信相手は検索してすぐに見つかった。

『ユーノ』
『クロノッ!? 大丈夫!? なのは達は無事なの!? はやてとリインは!?』

 矢継ぎ早にまくし立ててくる。クロノと同等かそれ以上に冷静沈着な少年にしては珍しいくらいに早口だった。

『一度に質問するな。僕は無事だ、問題無い』
『なのは達は!?』
『アルフは大丈夫だが、なのはとフェイトは幻覚魔法の一種で動けない状況だ。ユーノ、はやてから何か来たか?』
『アースラに直接。結界を解除したけど、クロノ達が動けないから来てくれって……!』
『という事は大体の状況把握はできているな。僕はフェイトの救助に向かう。なのはを頼む』

 返答を待たず、クロノは眼を閉じて意識を額の中心に集中させた。氷結の杖と機械仕掛けの杖を握り締め、フェイトを想う。
 出口が近付いて来る感覚。閉じられた視覚が何かを感じた。感覚もだ。見渡す限り何も無い空間が徐々に引き伸ばされ、一つの方向へ集約していく。
 はやての力に頼ってばかりではいられない。ここから先は、ある意味で自分との戦いになるはずなのだから。

『現状は分かってるけど、でもどうやってなのはの所まで!』
『……方法も分からないのに来たのか、君は』

 だとすれば無謀極まりない。呆れたクロノは意識集中したまま苦笑をこぼす。この優顔に似合わない無鉄砲な所は、二年前のあの日に、狂った自分に挑んで来た時と 変わらない。

『はやてからなのは達が危ないって聞いたんだ。じっとしていられる訳ないだろ』
『気持ちは分かるが、はやてはお前になのはを頼んでいたぞ。しっかりしてくれ』
『それも直接言われたさ。で、どうすればいいの!?』
『なのはを想え』

 単刀直入に告げる。
 願望等の深層心理を幻覚魔法で世界として形成しているのがこの世界のすべてだ。ならば、会いたい人、助けたいと願う人を思えばそこに自動的に転移しても不思議 は無い。はやてが創り出してくれた流れも、フェイトを想った瞬間に速度を増した。出口がすぐそこまで近付いている。クロノの推測は実証されているのだ。

『それで本当に――!』
『疑ってる暇があるのならサッサとしろ。なのはもフェイトも、もう限界が近い……!』

 怒鳴り散らしたい感情を抑え付けたクロノは、さらに金髪の少女を想う。
 あの子の笑顔。あの子の声。あの子の温もり。世界で誰よりも守りたい、一緒にいたいと願った少女のすべてを想う。
 意識がぶれる。周囲の情景が変化する。白と黒の二つの色が明滅を行い、音の無い爆発を繰り返す。眼を覆っていなければ視覚を奪われかねない激しい色彩。

『ユーノ』
『もうやってる! 行けそうだよ!』
『なのはを頼む。相手は最悪の奴だが――君達なら何とでもなる……!』
『事情はよく分からないけど、そっちもフェイトを!』
『言われるまでもない!』

 そうだ、言われるまでもない。思念通話を切断したクロノは急ぐ。S2Uに補助魔法を、デュランダルに攻撃魔法をそれぞれ構築させ、魔力を供給する。
 過去の自分に――二年前の白髪のクロノ・ハラオウンに引導を渡さなければならない。フェイトの為にも、はやての為にも、リインフォースの為にも。
 意を決して見開いた双眸が捉えたのは閃光だ。網膜を容赦無く焼き尽くす強烈な光を、クロノは睥睨して直視する。

「今の僕には沢山の約束がある。世界を敵に回しても守りたい人もいる。だから、クロノ・ハラオウン。空っぽの君には負けない」





魔法少女リリカルなのは SS

Snow Rain

♯.5





 幻覚魔法の一つであるのは分かっている。気が狂いそうな痛みも、身体の感覚を麻痺させるような寒さも、すべてが偽りに過ぎない。事実、すでにフェイトの身体 は致命傷を遥かに超えた負傷に彩られている。腕も足も、何度潰されたか分からない。内臓器官もだ。吐血過多で溺れもした。
 そんな状態なのに生きている自分が不思議だった。だからこれは幻覚なのだ。
 抗う意思さえあれば対抗する手段は構築できる。でも、その選択をフェイトは取ろうとしない。取る意思が無かった。
 高速射撃魔法――スティンガーレイが疾る。青白い魔力弾頭はフェイトの腹部に雪崩れ込み、防御性能を向上させていたインパルスフォームを完全に破壊した。 魔力で編み上げられた黒い衣服が四散し、下にあった白い肌が血に染まる。
 悲鳴を上げる体力すら無かった。被弾の衝撃が満身創痍の少女を背後へと吹き飛ばし、したたかに石畳の地面へと叩き付ける。

「マネキンだね、フェイト」

 無感情な声と無感情な顔で、白髪のクロノが眼前に立つ。手には硝煙をくゆらせる歪なデバイス――レギュレイテッドS2Uが握られている。特殊なカートリッジ システムが導入された、彼を狂わせている元凶の一つ。フェイトは蟲の息となった草食動物がそうするように、口で呼吸をしながら、瞳だけをデバイスへ向けた。
 それが精一杯の抵抗だった。健気なその行為を、白髪の彼は鼻で一笑する。

「二年前、僕がこうなった原因をこいつのせいだと思ってるのか?」
「………」
「だとすれば不正解だ。僕は僕自身の意思でレンの所に向かって、こいつを得たんだ」
「………」
「君が強過ぎたんだよ、フェイト。君のせいさ。君がこんな風に惨めに地面に転がって僕を睨んでるのも、元を正せば君に才能があったせいなんだよ」

 潰された左手が痛む。彼に消してもらった自傷の痕跡が火に焙られたような痛みを訴える。歯を噛み締めて耐える。この痛みは本当に幻覚なのか。
 フェイトの眼前へ、白髪のクロノがS2Uの先端を翳した。度重なる射撃魔法の行使で熱を持っているのか、先端に降り頻る雨が蒸発して鋭い音を鳴らした。

「さぁ、二年前にやったみたいに左手でも掻き毟れよ。僕がこうなったのは君のせいなんだから、フェイト」

 確かに、一度はそう思った。そう思い込む事で、クロノに拒絶されたという現実から逃避しようとした。それが本当に逃避になるのかすら分からない。

「バルディッシュも拾ってやるから」
「……違う」
「……なに?」

 クロノが白い柳眉を顰めさせる。
 指先一つ動かせない消耗し尽した身体のまま、フェイトは唯一動く瞳に意志を乗せて、雨の中に佇む二年前のクロノを見詰めた。

「あの時……クロノが、ああなったのは……誰のせいでもない……」
「……君はそうやって、また僕を傷付けるのか?」
「私との事もあった……なのはとの、事も……あった……アリサに怪我をさせて、被害者を……救えなかった。でも……でもクロノは……!」

 誰が悪い訳でもない。沢山の事柄が複雑に絡まった結果の不幸な出来事なのだ。それを全部自分の責任だと背負って悲劇のヒロインを演じていたのは自分だ。
 呼吸をすると潰された肺が痛んだが、無視して声を絞り出す。二年前の狂ったクロノを真っ向から否定する為に。

「クロノは弱くない。強くなって、二年前のあの時、私を抱き締めてくれた」
「………」
「君は強くない。ううん……力を持って、弱くなっただけ」

 かつてシグナムが同じ事を口にしていたとは、フェイトには知る由も無いだろう
 白いクロノの表情が変化する。一瞬だが眼の下が痙攣し、口が横一文字になる。

「自分を偽ろうとしないし、今を、ちゃんと受け入れてる……」
「黙れ」
「……私の補佐官で、午後の三時にはいつもキャラメルミルクを作ってくれて……髪を……撫でてくれて……!」
「黙れ……!」
「私の側にいてくれるのは……君よりもずっとずっと……強いクロノだよ……!」
「黙れ――!」

 S2Uが術式を構築する。ただの射撃魔法ではない、もっと大規模な魔法だ。白銀の光が球体を描いて広がり、視界を焼く。間違いなく砲撃魔法だろう。術式から してブレイズキャノン。白いクロノを中心に広がる紺碧の魔法陣が燐光を撒き、緩慢な回転を始めている。
 死体となった身体では回避なんて無理だ。防御も不可能。生き残る術はどこにも無い。
 しかし、フェイトは閃光の向こう側に消えつつある白いクロノを睨む事をやめない。
 白髪の少年の存在を、消し飛ぶその瞬間まで否定し続けるのだ――!

「消し飛べ、欠陥品――!」

 静かな苛立ちを吐き捨てるような声音。その言葉が撃発音声となり、構築されていた術式が制御開放される。膨大な熱量が雨を蒸発させ、濃霧のような水蒸気が 辺りを満たした。本当にどこまでも二年前の再現だ。すべてがあのままだ。
 ただ、違うのはフェイトに明瞭な意思があったという事。
 そして、本当の彼が来てくれたという事――!

「欠陥品は君だ」

 鋭利な一閃がレギュレイテッドS2Uの長柄を弾いた。甲高い金属音。強引に軌道を反らされた歪な魔導師の杖は、その切っ先を遥か雨雲へ向けた。刹那、砲撃音。  雷雨を蹴散らす灼熱の砲撃魔法が一直線に空へと上り、灰色の空を引き裂く。
 視界と聴覚を塞いでいた蒸気がゆっくりと晴れて行く。
 地面に平伏しているフェイトは何が起こったか把握できない。顔も動かせない酷い状態なのだ。でも、気配で分かる。
 雨足が徐々に遠のいて行く。白い石畳を叩いて弾ける水の雫が弱まって行く。その先の情景は、やはりフェイトが思った通りのものだった。

「おかしな気分だな、二年前の自分に会うのは」

 ふてぶてしさすら感じされる声音で、黒髪のクロノが告げた。彼のS2Uと白髪のクロノのレギュレイテッドS2Uが噛み合い、あらぬ方向へその先端部位を向けている。
 二人のクロノは、お互いのデバイスを膂力で拮抗させながら、顔を突き合わせて視線を交わす。

「これ以上フェイトに手は出させない」
「君程度にできるのか? AAA+風情が」
「総合Aランクの結界魔導師に負けたのは誰だったかな?」
「……殺してやる」
「無理だ。君は僕だ。二年前の僕自身だ。何を考えてるのか痛いほど分かるさ……!」

 二人が同時に動く。いや、わずかだが黒髪のクロノが速い。デュランダルの曲線を描いた先端を敵の懐に潜り込ませて、無詠唱で射撃魔法を行使。
 爆音。指向性の無属性衝撃魔法を零距離で喰らった白髪のクロノが苦悶の表情を浮かべて吹き飛ぶ。その先に、黒髪のクロノが構築済みだった術式をS2Uで制御 解放。敵の背後、何も無い空間が歪んで紺碧の魔法陣が走り、幾つもの鎖が白髪のクロノへ殺到した。

「フェイト」

 背を向けたまま、黒髪のクロノが言った。

「すぐに助けるから、もう少し待っててくれ」

 小さく肯く。肩越しに凄惨な姿となった少女を見たクロノは一瞬だけ表情を険しくするが、その身体が向きを変える事は無かった。
 この世界は仮想現実。高度な幻覚魔法の一つに過ぎない。身体の損傷は精神の磨耗そのものだ。現実世界に戻れば外傷は無く、極度の精神衰弱程度で済む。
 肩を震わせて、駆け寄りたい衝動を堪えたクロノは、ディレイドバインドを突破――拘束の鎖をバインドブレイクで破壊した――した白髪のクロノの前に立つ。 汎用性と補助に優れたS2Uを盾として、攻撃性と取り回しに秀でたデュランダルを剣として半身に構える。

「君とはここでケリをつける」
「どうかな。僕はフェイトの悪夢そのものだ。例えここで僕を消したとしても、記憶としての僕は消えない」
「消すさ」

 魔法陣が広がる。魔力の加速維持を行う帯状魔法陣が二機のストレージデバイスを包み込む。

「はやてを傷付けて、僕はこの子を好きになった。どんな悲しみからもこの子を守る。そうじゃないと」

 敵が射撃魔法を行使。熟知したスティンガーレイだ。魔力の浪費は抑え、横っ飛びに回避。着地よりも先に攻撃魔法を構築。氷結魔法の行使に卓越した性能を 誇るデュランダルが、潤沢な魔力回路をマスターの魔力で満たし、最速で射撃魔法を制御解放する。

『Icicle Lancer』
「リインに啖呵を切った意味が無いからな……!」

 虚数から生み出された氷柱が豪雨のように白髪のクロノに集中した。



 ☆



 銃声が鳴り響く。身を守る術をすべて失った白い少女は、被弾するしかなかった。
 穴だらけになった身体を見下ろすと、下腹部から血が吹き出た。引き裂かれたセイクリッドモードが飛沫のように眼の前を飛んで行く。急所を正確に撃ち抜かれた と自覚した瞬間、発狂しかねない激痛が全身に広がった。
 無様にのたうち回り、絶叫し、失禁したとしても誰も笑うまい。
 それなのに、なのはは震えるだけだった。膝を付いて、ユーノ・スクライアの頭部を胸に抱いて、射抜くように銃口を睨み、その先にある白衣の男に敵意を叩き付ける。
 敵は乱れた銀髪を濡れた指先で整えて、眼鏡のブリッジを軽く直す。

「鳴かないのかなぁ?」

 さらに銃声。肩が撃ち抜かれた。綺麗な風穴から噴水のように流血。砕けた骨の音までもが生々しく耳に残る。
 痛みが無いと言えば嘘になる。でも、叫ばない。声を上げれば楽になると理解しているが、決して口には出さない。

「鳴けよ」
「嫌です」

 今度は髪だ。2・5インチの短バレルとは思えない命中精度で、白衣の男はなのはのツインテールを連続して撃ち抜く。風が巻き、引き裂かれた栗色の髪を空に舞い上げた。
 幼馴染の少年とお揃いだったリボンがどこかへ飛んで行く。灰色の空を漂って行く。咄嗟に取ろうと伸ばした掌を、対魔徹甲弾が射抜く。皮が裂け、肉が千切れ、骨 が砕かれる。
 それでも――なのはは苦悶の呻き一つ漏らさなかった。残骸のような手で失われかけたリボンを掴み、安堵の吐息をつく。
 レイン・レンは、十二歳の少女らしい表情で背を丸める高町なのはを前に、口をへの字に折り曲げて地団駄を踏んだ。

「鳴いて下さいよぉ高町なのはエゴイストォォォォォオオオオオオオッ!!!」
「……嫌、です」
「さっきは沢山鳴いてたじゃねぇかぁッ! 嗚呼!?」
「………」

 本音を言えば、叫ぶ気力も体力も無いのだ。ただ、それをこの男に悟られないように強気を演じているだけだ。
 それも限界に近い。時間の経過と傷の痛みで冷えた頭は、この仮想現実世界のカラクリを見抜けたが、時はすでに遅かった。
 レイジングハートも、レイン・レンによって完膚無きまでに破壊され尽くされた。喩え二年前のあの時よりも成長しているからと言って、デバイス抜きでこの狂人の 防御を突破するのは至難に近い。消耗した魔力と体力では無理難題だ。
 これ以上の負傷しては精神が保たない。壊れる自分までもが容易に想像できるが、徒手空拳でどうやってこの男に立ち向かえと言うのか。

「あぁもぅ。最初の頃はボーイフレンドの頭でいい感じに狂ってたのにぃ。残念無念でございます」

 肩を竦めたレンが、大仰な動作でハンドガンの弾を交換する。排出された金色の空薬莢が乾いた音を響かせて散乱した。
 少女の理性を容易に破壊し尽くしたユーノ・スクライアの凄惨な頭部を、なのはは今も大切な宝物のように抱いている。これを手放すつもりも、失くすつもりも無い。 喩え仮想世界の中であり現実のものではなかったとして――大好きな少年の亡骸を無碍に扱う事なんてできなかった。

「てめぇや人造人間はほとほと自分以外の誰かが大切なんだな。素晴らしいよ本当に。愛は地球を救うとは鼻水が出るほどの名言だ」
「………」
「もう話すつもりもないってかぁ? てめぇの頭ん中なのになぁ。僕は言わばてめぇの心的外傷の象徴みたいなモンだぜ? 仲良くしようぜマイハニー。 そんな冷たい眼で見詰められたら勃っちまう」

 両腕を広げて喉を鳴らす狂人。言い返す言葉は探しても出て来ない。唇を噛み締めて、なのはは嘲笑に耐えた。悔しくて悔しくて仕方が無かった。
 その通りだ。この白衣の男――レイン・レンは、なのはにとって拒絶と憎悪と絶望の象徴だ。今まで決して膝を折らなかった高町なのはの不屈の心を、一度は 破壊した忌むべき存在なのである。トラウマとは良く言ったものだ。もはや沈黙して肯定する以外に、なのはにはするべき事が見当たらない。
 克服したはずだったのに。二年前のあの時に自分の意思を貫くと告げたはずなのに――!
 悔しくて歪む視界。その中、敵が近付いて来るのが分かった。でも、もう立ち上がる事もできない。両膝をついて項垂れるような姿から立ち直れない。
 レンの大きな手がなのはの短くなった髪へと伸び、無造作に掴み上げる。首の骨の軋みが内側から聞こえた。すぐにでも折れる。
 無抵抗な十二歳の少女の頭を鷲掴みして持ち上げた狂人は、大切に抱いていた少年の頭部に銃口を押し付けて連射する。
 流血。

「やぁ……!」
「ほぉらぁほぉらぁほぉらぁ」

 三連射された弾頭は貫通せず、少年の頭部をズタズタにした。血液と共に脳髄が吹き出る。もはや原型が無い。

「やめてぇ……!」
「嫌ですー。民主主義に則って否決されました。という訳でもう三連射」

 宣言通り、三発の銃弾がさらに撃ち込まれる。最後の弾頭は破損の激しい頭蓋骨ではその衝撃を吸収できず、脆い部分――眼球を貫いてコンクリートの床に突き刺さった。
 ユーノ・スクライアの頭部は、六発の銃弾を零距離で受け、ただの肉塊となった。黒い窪みとなった片方の眼からは納める場所を失った何かがゆっくりとこぼれ落ちて 行く。

「うぁぁぁ……ぁぁぁぁぁぁぁ……!」
「ご大層に掲げてる正義なんて捨てちまえよぉ! ええ、エゴイスト高町ぃ! てめぇも人間だろぉ!? 何でもできるスーパーマンじゃねぇ! ムカつきもすりゃ 泣き叫ぶ! 悲しみもすりゃ憎しみも持つぅ!」
「っ……っぁ……!」
「未来の戦技教導官様よぉ! 僕は徹底的にてめぇを否定するぞ! てめぇはその化け物じみた魔力を振り翳して自分の価値観押し付けて困ったら砲撃する困ったちゃんだ!  てめぇは誰かに何かを伝えられるような立場にゃ立てねぇんだよ!」

 頭皮に五本の指が食い込む。頭蓋骨が陥没する感覚。その痛みはもはやこの世のものとは思えなかった。眼を見開いて絶叫した。本当におかしくなってしまいそうだった。

「好き勝手に暴れて、自己陶酔して、管理局一の自慰女になっちまえクソ餓鬼がぁ! 我慢するなよ耐えるなよ! もっと感情的になっちまえよぉぉぉぉぉおおおッ!」

 聞くに堪えない品行下劣な言葉を、なのはは自分の悲鳴で掻き消してしまう。
 否定されている。あの時と同じような辛辣な言葉で、これからの高町なのはをすべて否定されている。喜悦を極めている敵の気配や表情から分かる。
 悔しくてどうにかなってしまいそうだった。ユーノから教えてもらった自分の意思を貫くという事の大切さを、喉が裂けてしまうまでぶつけたかった。

「あぅ……がぁ……!」
「叫び過ぎて喉潰れたって感じだなぁ。……終わりだ、高町なのは」

 蛇のような舌を覗かせて、レンが唇をひと舐めする。ぞっとするような形相の直後、頭蓋骨を圧迫している握力が一気に強さを増した。
 今度こそ終わる。そう自覚する間もなく意識が略奪される。そして、

「初めてで会った時もこうしたね」

 ユーノ・スクライアの爪先がレイン・レンの顔面に突き刺さった。
 ひしゃげる眼鏡。レンズが粉々に飛び散る。ぐらりとレンの長身痩躯の身体が揺れて、なのはの頭部を圧壊せんと働いていた握力が緩んだ。
 その期を逃さず、ユーノが身を捩る。下半身を捻り、踵で敵のこめかみを蹴り飛ばして跳躍。なのはを抱き締めて一気に飛び退いた。
 割れてしまいそうな頭痛に喘ぎながら、なのはは霞む視界で少年を見上げる。彼は顔を抑えて地面を転がり回っている狂人を見据えたまま、微動だにしなかった。
 ――ユーノ君だ……。
 そんな当たり前の光景を噛み締める。どうしてここに。どうやって来たのか。沢山の疑問が浮かんでは消える。訊こうにも潰れた喉のせいで声が出ない。
 顔を動かして喘ぐように喋ろうとするなのはを、ユーノがそっと抱く。

「ごめん、遅くなった」

 そんな事無い。

「話はクロノとはやてから聞いてる。ここは……なのはの世界、だね」

 周辺を鋭い眼付きで確認するユーノ。二年前のデバイス暴走事件の終着地であるここでの戦いを、ユーノも垣間見ている。彼にとっても、ここは決して 忘れられない場所なのだ。

「……嫌な記憶を思い出させて精神を磨耗させる魔法、かな、これは。性質が悪い。まるでレイン・レンみたいだ」
「お褒めに頂き恐悦至極だよぉフェレット君ッ!」

 打撲と擦過傷だらけになった顔で、狂人が喚く。筋力では自信の無いユーノだが、それでも渾身の蹴りだったはずだ。それが急所に見事な直撃をしているというのに、 白衣の男は苛立ちに表情を歪めるばかりで衝撃が透過しているように思えない。
 ユーノは男の挙動に眼を細めながら、腰を落とす。いつでも走り出せる姿勢だ。

「いやぁ! 女の子守る男の子って最強ってーか、ちょっと設定無視し過ぎじゃねぇか!?」
「人体構造を無視しているあなたに言われたくありませんね。……はやてが眼を醒ましました。時期にこの仮想現実は崩壊します」

 舌打ちをするレン。苛立たしげにハンドガンの弾丸を補充する。

「あなたはもう消えます、レイン・レン」
「いや、消えないね。分かってるだろうが、ここは仮想現実でも高町なのはの深層心理の奥底だ。僕はその餓鬼が抱いてる嫌な物事が形になってるだけ。分かる?  つまり消せないのさ」
「消します」
「……てめぇ頭大丈夫か? 検索魔法なんてクソ地味な魔法使い過ぎてブッ壊れたか?」

 額を抱えた男が濃厚な嘲笑を口元に浮かべた。
 なのはも疑問に思う。敵の言う通り、この世界は高町なのはそのものだ。深層心理の奥底に蔓延っている記憶が、戦慄を覚えるような処理能力で演算され、構築され ている幻覚魔法により仮想現実空間として映像化している。言わば思い出の疑似体験状態にある。だから、ここに出て来る物体や出来事を消去する事はできない。それは 記憶を消去するのと同義になる。
 男が口にするまでもない事だ。誰よりも理性的なユーノ・スクライアが分かっていないはずがない。なのはは無理だと口にしようとしたが、声は酷いガサガサとした 雑音となって出るばかりだ。仕方が無いので思念通話に切り替える。

『そうだよ、ユーノ君……。ここは私の世界、だから。だからこの人を何とかするなんて』

 ――できない。諦めを表す言葉を、ユーノは視線をレイン・レンに定めたまま否定した。

「ここがなのはの世界だという事は分かってます。僕が消すのはあなたの存在じゃない」
「だったら何を消すつもりだい? 未来の無限書庫司書長殿は?」

 六発の対魔徹甲弾を装填され、息を吹き返した銀色のハンドガンがユーノの眉間に狙いを定める。親指が撃鉄を起こす音が静かに響く。
 殺傷設定の魔法よりも遥かに容易に人命を奪える凶器を前にしても、少年の表情は変わらない。

「なのはの諦めようという気持ちを、僕は消します」
「……は?」
「僕はクロノのように魔力もありません。フェイトのように才能もありません。補助魔法が少し使えるだけの、取るに足らない存在です。でも」

 なのはの上腕部を支えているユーノの指先に力が篭もる。それはわずかな痛みと熱を持って、少女の身体を駆け巡る。
 見上げた先にある少年の顔付きは、いつもの穏やかさは面影一つ無くて。
 ただ前に立つ敵だけを見据える瞳は鋭くて。
 これまでほとんど見た経験の無い相貌に、なのはは口を惚けるように開く。

「この子を支えたいと思う気持ちだけは誰にも負けないつもりです。この子が辛いと思った時、必ず側にいて、折れそうな身体を支えます」
「今がその時だってのか?」
「ええ」
「なるほど、立派な決意だ。でも支えるだけじゃ意味はねぇぞ」
「そうですね。ですから」

 なのはを横に寝かせたユーノが立ち上がり、手をすっと狂人へ向けた。
 掌の中から現れたのは、赤い宝石。破損も無ければ汚れ一つ無い、真紅の輝きを放つそれは、

「レイジングハート、セットアップ」
『All right my Another master.』

 聞き慣れた電子音声が木霊した。搭載されている全システムが一斉に活性化し、機体を構成するパーツが使用者の魔力を糧に構築され、デバイスとしての形状を 刹那の間に整えていく。
 数瞬前まで赤い宝石だったそれは、一振りのインテリジェントデバイスとなってユーノの掌に収まった。

「……マジで設定無視も大概にしろや、フェレットボーイ」
「ここはなのはの世界です。そしてあなたはなのはの記憶。言わば、なのはの一部です。でも、僕はなのはじゃない。意識だけをこの子の深層意識下に潜行させている だけです」
「……てめぇだけが不純物って訳か」

 レンが忌々しげに吐き捨て、見下すような形相でユーノを捉える。
 朦朧とする意識の中で、なのははユーノの意図を知って息を呑んだ。彼はなのはの記憶に干渉して、そこからレイジングハートに関するすべての情報を取得し、それ を設計図として自分の魔力で擬似的なレイジングハートを創り出したのだ。
 言うだけならば簡単だが、人の記憶という膨大な情報の海から特定の情報のみを吸い上げて再構成する技術は決して簡単ではない。しかも高速処理でだ。検索魔法 等を得意とする者でなければ非常に難易度が高い。やれ、と言われても、なのははできないと首を横に振るだろう。恐らくクロノでも顔色を変える技術だ。

「しかしまぁ、そいつはカートリッジシステムを積んでねぇな。絶対的火力不足だよ?」
「あれは僕には扱えませんから外しました。使えない装備は邪魔なだけです」
「満足な攻撃魔法が使えないてめぇが、僕をどうするっての?」
「忘れましたか?」

 ユーノの口元がわずかに歪んだ。そこに浮かんだのは、彼らしからぬ不適な笑み。

「二年前のクロノを打倒するのに必要だったのは攻撃魔法じゃありません」
「なに?」

 ユーノが魔法陣を構築する。術式は防御と拘束の二種類。レイジングハートを高価な魔力増幅器として機能させて強化。魔力の飛沫が放出される。
 身を起こす事もできないなのはは、顔だけを彼に向けた。二年前、ユーノがどんな無謀な行動でクロノを止めたのか、自分も知らなかった。どれだけ訊ねても はぐらかされるばかりで口を割ってくれなかった。レイジングハートもだ。
 どんな方法を駆使したのか。でも攻撃魔法が使えない以上、抜本的に敵を打倒する事はできない。一体どうやって――。

『なのは』

 思念通話にして、ユーノが呼んだ。

『ストラグルバインドでこの人を止める。防御魔法も全部解除するから、砲撃魔法で撃ち抜いて』
『砲撃魔法でって、でもレイジングハートは……!』
『大丈夫、僕のレイジングハートがあるから』

 肩越しに振り向いていた彼が、にっこりと微笑んだ。呼応するように淡い緑色の魔力光を放出しているレイジングハートが明滅する。

『怪我で厳しいと思うけど、お願い』
『ユーノ、君……』
『僕は君を支える事しかできない。でも、どんな時でも支えるって誓う』

 躊躇いも無くユーノが言った。顔はもう前に向けられていて、表情は分からなかった。
 胸の奥が熱くなる。ふわりと何かに包まれるような感覚だ。頭痛を覚えるほどの傷の痛みが軽くなるような錯覚すら覚えてしまった。
 どんな時でも――支える。支えてくれる人が――いる。

『このレイン・レンは、いつかなのはが超えなきゃいけない壁なんだ。だから、僕が支えるから、僕が背中を押すから、超えるんだ』
『………』
『少しだけ動けるようにしておいて』

 答えを待たずに思念通話を切断したユーノは、大きく呼吸をして、レイジングハートを構え直す。
 翠の瞳は、周囲を満たしている魔力光の向こう側で身構えている狂人を見詰めて離さない。
 二人は互いに歩み寄る事も無く、気配を読み合う事もせず、短い沈黙の後、同時に地を蹴った。








 continues.





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 あとがき
 読んでいただきましてありがとうございます。
 次回辺りで最後でしょうか。戦闘はほとんど飛ばします予定です。言わば意思と意思との衝突なので。




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